読書

ジェイムズ・R・ゲインズ著『「音楽の捧げもの」が生まれた晩――バッハとフリードリッヒ大王』

バッハの対位法に基づく音楽は実に難解であり、そのロジックを勉強したことがない私のような素人が味わえる部位は限られている。とくにそれを思うのは、その種の音楽として傑作と言われる『フーガの技法』を聴くときで、人好きのするメロディがあるわけでも…

平野啓一郎著『マチネの終わりに』

平野啓一郎の『マチネの終わりに』は、形の上では恋愛小説だけれども、同じ著者の『ドーン』がSFの形を取りつつ、実際にはコミュニケーションの問題を掘り下げようとしているように、主人公二人の恋愛それ自体の成り行きを出来事の柱としながら、恋愛につい…

平野啓一郎著『ドーン』、『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』

入院患者となって無聊をかこつ身になり、体力の続く範囲で読書をした。読んだ本のうち、話題の音楽コンクール小説について語気は控えめに「物足りない」と感想を書いたら、それを読んだ友人が、おそらく音楽家を主人公にしている良質な小説という意味で、平…

恩田陸著『蜜蜂と遠雷』

本を読む元気が出てきた。 難しい本、考えることを要求する本に立ち向かう体力はまだないので、よし、エンターテイメントを読もうと思った。そこで選んだ一冊が恩田陸著『蜜蜂と遠雷』である。今年の直木賞と本屋大賞のダブル受賞作。ピアノコンクールを題材…

ポール・ホフマン著『ウィーン 栄光・黄昏・亡命』

訳者のあとがきによると、本書の著者であるポール・ホフマン(1912-2008)はニューヨーク・タイムズに勤めたアメリカ人のジャーナリストで、数多くのノンフィクション作品を残している人物だが、そもそもの生まれはウィーン。本書は一人のジャーナリストが故…

クリストフ・ヴォルフ著『モーツァルト 最後の四年間―栄光への門出』

「ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトの創作人生の最後の四年間を、早すぎる死という破局に固定化させることなく扱うことはできないだろうか。」という一文で始まる『モーツァルト 最後の四年間―栄光への門出』は、著名なバッハの研究家であるクリ…

リンツ

ウィーンを後にリンツに出かけました。およそ200キロ弱。ウィーン西駅から特急列車に乗って1時間半ほどの旅です。 リンツは、ウィーン、グラーツに次いでオーストリア第3の規模を誇る都市ですが、ウィキペディアで調べてみると、人口はたったの19万人で、ウ…

青柳いづみこ著『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』

青柳いづみこの『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』は興味深い読書だった。本を手にとった際の期待を裏切るという点では失敗作と呼びたい出来だし、それが言い過ぎだとしても、これは演奏家論としてはせいぜい佳作というにとどまる程度の内容じゃないだろう…

嘘くさい物語

本屋で文芸書のコーナーに立った時に、面白い物語を読みたいと思った。えいやとある日本人作家の長編を購入し2日で読了したが、これでいいはずないだろうと言いたくなるような代物だった。有名な賞をとった人が名の知れた出版社から出している本とは到底思え…

ジョナサン・フランゼン著『フリーダム』

『フリーダム』(訳:森慎一郎)は、数年前に出たアメリカ人作家ジョナサン・フランゼンの作品で、ニューヨーク生まれのヒロインが家族との関係がうまくいかずに故郷を離れて中西部で大学以降の生活を送り、夫と知り合い、その友人と三角関係に陥り、子ども…

デュトゥルトル著『フランス紀行』

朝っぱらから大リーグの試合を生放送で試聴できたり、ベルリン・フィルの定期演奏会をインターネット経由で聴けたり、アメリカの新聞記事をアメリカ人が読むのと同じ日に読んだりなんてことは、自分が子供の頃には想像すらできなかった。それを考えると、か…

スティーヴン・キング著『11/22/63』

久しぶりに分厚いエンターテイメントを読んだ。スティーヴン・キングの『11/22/63』。おしゃれなタイムマシンものの長編である。奥さんに逃げられ、空虚な思いを抱える主人公の高校教師が、時間の穴をくぐってケネディを助けに1960年代のアメリカに出かける…

山口果林著『安部公房とわたし』

丸善本店の文芸書コーナーで目立つ場所に平積みになっており、軽めの読みやすい本を手に取りたい気持ちと複数の新聞書評が出ていた事実と、当然オモチロイことが書かれているに違いないという覗き見趣味的好奇心に背中を押され、タイトルを見て手にとったと…

電子書籍

リアルの世界ではしばしご無沙汰している美崎薫さんからメールが届いた。「どうもよのなかにある電子書籍リーダーが気に入らず、気に入らないので、自分で作りました」とあった。背表紙が見えたり、読んだページの上に書き込みをするように付箋をはったり、…

「さよなら、フルビー君」

カール・フルビー著『アントン・ブルックナーの思い出』から、交響曲第9番と『テ・デウム』に関するくだりを見つけてそこだけ文字にしてみる。ブルックナーのお弟子さんだった著者が、ブルックナーから9番が完成しなかった時には『テ・デウム』を終楽章とし…

ブルックナーとドイツ文字

ちょうどひと月ほど前になるが、ブルックナーの交響曲第9番と『テ・デウム』を続けて演奏するコンサートを聴いた。その際に、9番とはまったく性格が異なる『テ・デウム』を未完成の第4楽章の代わりに演奏してほしいと言ったというブルックナーの心持ちに思い…

クラウディオ・マグリス著『ドナウ ある川の伝記』

欧州の大河、ドナウ川の流域にはさまざまな国、さまざまな文化、さまざまな人々が生きてきた。総延長3千キロという果てしない距離と、古代から現代に至る時の流れの、さらなる果てしなさを視野に入れると、果たしてどのような物語がそこに出来するのか。イタ…

ママ

工藤美代子著『なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか』で紹介されているエピソードの中に、レストランに出没する子供のお化けの話がある。ある日、開店から4年が経ったレストランのオーナーである友人の女性からどこか思いつめたような、それでいて…

お化けの真実

夏といえば付き物は海と山とスイカと花火と、そして怪談。 いつものように勤めのあとに立ち寄った書店で、文庫本コーナーで平台に置かれていた工藤美代子著『なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか』を見つけ、パラパラとめくるうちに買って読んでみ…

西洋音楽はアフタービートか

森本恭正著『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』(光文社新書)を読んだ。著者の森本恭正さんは芸大の後にウィーン国立音大で学び、彼の地で作曲家としてのキャリアを築いた音楽家。その著者が、これまでのご自身の体験に基づいて、日本人と西洋音楽の距離…

開高健の釣りものでは『フィッシュ・オン』が最高という話

秋口にNHKのBS放送で「シリーズ釣って、食べて、生きた! 作家開高健の世界」と銘打たれたノンフィクション番組をやっていた。開高健の釣行に同行した人々を取材し、当時の映像を織り込みながらかつての大兄を振り返るという趣旨の番組だった。この冒頭で、…

もひとつ『モーツァルトの脳』

『モーツァルトの脳』は音楽を司る脳の機能に関する概論にとどまり、天才論にまで歩を進める本ではない。でも、モーツァルトという固有名詞に耳がそばだつ者が期待するのは、やはり大作曲家の創造の謎に対する接近。何が彼を余人をもって代えがたい存在にし…

勢川びき著『サラリーマンに効くクスリ!』

東京は丸の内、午後7時30分の丸善本店。一階のビジネス書コーナーを入っていくと……。あった、あった。勢川さんの『サラリーマンに効くクスリ!』。 なかなか書店に行けなかったので、アマゾンで買おうかとも思ったが、やはりこの本はどうしても書店の棚に並…

まじめな『モーツァルトの脳』

『モーツァルトの脳』はモーツァルトに関するいくつもの逸話を使い、それらを素材に音楽を司る脳の機能を分析するのだが、本書は大方が期待するようにモーツァルトの天才には肉薄しない。あるいは予想とはかなり異なる方法でモーツァルトの天才に近づくと言…

お笑い『モーツァルトの脳』

丸善本店の3階、エスカレーターに導かれて登りついたフロアの右手に店舗お勧めの人文系書籍が並ぶ棚がある。そこに並べられている書籍を確かめるのは、この本屋さんを訪れる楽しみ。とくにここしばらくは、その棚の右手隅に音楽関係の書籍がいくつも並べられ…

細川布久子著『わたしの開高健』

id:mmpoloさんに教えていただいた細川布久子さんの『わたしの開高健』を読んだ。5月末に集英社より刊行された本である。著者の細川布久子さんは、大学卒業後に働き始めた雑誌『面白半分』で開高健の担当となり、80年代半ばに渡仏するまでのおよそ10年間、仕…

美崎薫著『記憶する道具』

『記憶する住宅』のプロデューサーとして知られる美崎薫さんは大切なブログの仲間であり友人ですが、ありとあらゆる体験を記録し、自分自身のためだけに作ったアプリケーションの力を借りて日常的にフィードバックしながら生きるこの独自の個性が、自身は“過…

川口マーン惠美著『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』

川口マーン惠美という人が書いた『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』という本を読んだ。この本は、ドイツ在住の著者が、フルトヴェングラーとカラヤンの両方、あるいはカラヤンの指揮のもとで演奏をしたことがあるベルリン・フィルのOB11人を著者が200…

『ブログ誕生』 ブロガーが作ったブログの本

発端は板東慶太さん(id:keitabando)のメールだった。面白そうな本があるという。アメリカのジャーナリストが書いたノンフィクションで、ブログが米国で開発され、普及していく様子を描いた一冊らしい。すぐ取り寄せて読み始めた。前書きと第1章を読んだと…

赤染晶子著『乙女の密告』

先月号の文藝春秋は恒例の芥川賞受賞作掲載号だったが、今回の受賞作、赤染晶子著『乙女の密告』はたいへん興味深かった。選評で作品に対する評価がまっぷたつに割れ、積極的支持と積極的不支持が鮮明に別れたのである。作品は関西の外語女子大でドイツ語を…