『君たちはどう生きるか』、『ゴジラ-1.0』、『PERFECT DAYS』

この1年で映画を3本見た。『君たちはどう生きるか』、『ゴジラ-1.0』、『PERFECT DAYS』の3本。どれも、たまたま今年のアカデミー賞で候補になった日本映画の今年を代表する作品だ。それぞれに見応えがあったが、どれもしっくりとはこなかった。

 

君たちはどう生きるか』は、シネマチックな手書きアニメーションの美しさはさすがの宮崎駿作品で、劇場で見るとその良さには感服するものがある。しかし、この作品のメッセージは難しくて、よく分からない。物語のスタイルとしては、ダンテの『神曲』の地獄めぐりやモーツァルトの『魔笛』の主人公がくぐる試練を連想する。もっと最近の作品であれば、村上春樹の『騎士団長殺し』などもそうした枠組みを備えており、珍しいものではないと思うが、監督が訴えたいものが何なのか、私にはよく見えなかった。死んだ母親へのノスタルジーは普遍的なテーマとして理解できるが、それを語るために戦中戦後の時代背景を持ち込み、さらには異界への旅を組み込んで、主人公に体験させる様々な出来事に、しかし『不思議の国のアリス』のような、この作品ならではのインパクトはなかった。場面の絵はとてもきれいだけれども、この地獄めぐりが最後に行き着く前に私は半ば退屈してしまった。

宮崎駿は当然、すごく語りたいことがあって、この映画を作ったのだろうが、もう少し説明的になってくれないと、あるいは分かりやすいヒントをもらえないと、その語りたいことが私にはよく分からない。鑑賞者が鈍いだけなのか。そうかもしれないが、映画ってもっと説明的であるべき表現形式ではないだろうか。言い方を変えれば、有名監督の作ったものはありがたく拝受し、分からないのはお前に足りない部分があるのだから、一所懸命に必要な理屈は補い、理解し感動すべきであると言われているようで、なんだか腑に落ちない。

 

物心がつく頃に『ウルトラQ』や『ウルトラマン』に親しんだ世代なので、『ゴジラ-1.0』はとても楽しみに映画館に出かけた。音響、映像には心底満足した。映画ではゴジラが東京に足を運んだのが1度だけで、それではあまりにあっけない、もっと暴れてほしいとは思ったが、伊福部昭の音楽が大害獣銀座襲来と同時に鳴り響くシーンに血圧マックス、全身総毛立ち状態になり、ここだけでも、この映画に満点をあげていい気分になった。で、2度も見てしまった。

ただ、この脚本には、満点どころかその半分がせいぜいかなあというのが、いつわらざる実感で、この映画を評価できない理由をなしている。

どこが悪いのか。物足りないか。それは、時代設定を先の大戦の末期から戦後すぐにした理由がご都合主義だからだ。初代『ゴジラ』は怪獣映画というジャンルを生み出した記念碑的作品であると同時に反戦映画の傑作である。それが私の頭の中には常にある。だから、今回、戦後すぐに東京を襲うゴジラが初代の反戦キャラであるのは必定であるという余計な思い込みで映画館の椅子に座ったのだが、この映画はそうした政治的、イデオロギー的な側面をきれいに脱色していた。

ある意味で、そこがこの映画のよくできたところで、政治的にニュートラルだから、アメリカに持っていっても反米映画と見られる心配は微塵もない。アメリカの映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」で『Godzilla -1.0』に対する一般視聴者のコメントを読むと、脚本がよい、物語に涙したという書き込みが一つや二つではないのである。これには驚いた。そして、「なるほどアメリカの若いビューアーにそんなふうに受け入れられるようにこの作品は作ってあるのだな」と合点がいった。

主人公は神風特攻隊の生き残りであり、復員船や東京大空襲で焼き払われた東京の町並み、闇市が登場することによって、映画には面白さ抜群の場面設定と娯楽性がもたらされる。第二次世界大戦、太平洋戦争は、その戦争自体を思い起こすために呼び出されたのではなく、その後の日本の復興や今日の経済的な不調に続く歴史的な文脈を語るために呼び出されたのではなく、ゴジラが出てくるのにうまく馴染む人間模様を描くのに適していると判断されたが故に、それだけの理由で持ち込まれたのだ。

このようにして戦中・戦後が描かれるようになったことに、心静かに驚かされた。本当にそんなんでいいのか、と私は思った。私自身は戦争を知らない子どもたちの世代だが、私等の親の世代はそうではなかった。理由のわからないままに外国のジャングルに送られ、南シナ海の藻屑となり、本土にあって多くの肉親、知人をなくした人々が我々の周囲にはいた。皆がそうだった。その人達の声が自分の記憶にある世代として、第二次世界大戦を描くことに敬虔さがあってしかるべき、うかつに触ってはいけないと考える世代の端っこに自分はいる。そんな鑑賞者がマジョリティを形成する時代ではなくなったということ、災害の記憶を云々するのは、それが第二次世界大戦規模の国家的苦難であっても、この国では到底百年はもたないのだというのが『ゴジラ-1.0』鑑賞の教訓である。

 

3作品中最後に見た『PERFECT DAYS』は、ヴィム・ヴェンダースが東京を舞台に役所広司を主演に撮った作品だが、この作品のよさは、ヴェンダース、役所という二つの固有名詞で言い足りるように思う(そんなことを言っては数多の関係者に怒られそうだが)。

ヴェンダースの小津好き、「美しき日本」観、手練れのカメラワーク、役所広司の存在感、それらを楽しめる気持ちの良い作品だった。ただ、こいつを名作と呼ぶのはどうか。役所演じる主人公は、就寝前にフォークナーを読み、外国人の英語には造作なく反応するインテリおじさんだが、映画の中では明示的に説明されない何がしかの理由から東京の公衆トイレの清掃を職業としている。その謹厳実直な仕事への取り組みは、あたかも一般人が禅寺で修業をしているかの如くである。如くではなく、それはほとんど修行であり、そのものと言ってもよい。ドラマチックな筋書きはなく、そうした日常が淡々と、しかし抜群に素敵な映像で紡ぎ出される。

ではタイトルの『PERFECT DAYS』とは何か。永平寺に修行に行っているような生活、心の持ちようが完璧な日々を構成するのならば、我々日本人はそうした価値観を、少なくとも西洋文化の中で生活する人々とは異なる深さで理解し、同時にそれが理想的に過ぎるある種の完璧さであることにも何世紀も以前から気がついている。今さら『PERFECT DAYS』と言われても鼻白む類の話である。そうした話もヴェンダースが撮って、役所広司が主演を張るとすごくきれいな映画になる。

 

というわけで、たまに映画を見るのは面白い。