『ゴジラ』の荒唐無稽さと現代性

東京の街にゴジラの模型が登場して、東宝の新作の前景気をあおっているようだが、はたしてオリジナルの『ゴジラ』以降、続編はものの見事に成功をみていない。
子供の頃に見た『モスラ対ゴジラ』だとか『南海の大決闘』だとか、その種の映画は小学生になりたての子供には十分にリアリティがあり、恐ろしく、迫力に満ちていたが、それはつまりせいぜい小学生の子供の知覚に訴えるのが関の山だ。大人になって再度観れば、それらの映画を喜んでみた子供時代の記憶が反芻できる嬉しさはつねにつきまとうものの、映画としては着ぐるみ特撮はばかばかしく、ほとんどの作品のストーリーは大人の鑑賞には耐えられない水準に引き下げられている。

モンスター映画を否定するつもりはこれっぽっちもなく、それどころか今ですら面白い怪獣映画を観たい!とすら思っているのである。しかし、ゴジラはよろしくない。ウルトラQウルトラマンの方が確実に気が利いていると思うし、昭和の設定を一新して望んだ平成のガメラなんか、映像をふくめ、それなりにかっこよかった。それらに比べると、最初から「彼は不死身です」と言ってしまっているゴジラ特有の難しさがあるのは確実だ。

観客の情を動かすのは、怪獣映画であれ最終的には登場人物の繊細な心の動きなのだから、ゴジラのようなべらぼうに気の利かない、バカでかいだけの小道具で成功を追い求めるのは間違った方角に向けてアクセルを踏み続けるようなものだ。そもそも本来『ゴジラ』に続編があるとすれば、絶対的大量破壊兵器『オキシジェン・デストロイヤー』をめぐる顛末に向かうのが本筋だったのかもしれない。実は焼かれたオキシジェン・デストロイヤーの設計図には兄弟版が存在していただとか、『ゴジラ』の中で新聞記者の質問の中で名前だけが出てきたドイツの科学者を新作の登場人物にして芹沢博士と複雑な関係を回想させるだとか、この線はいろいろと楽しい妄想を呼び覚ましてくれる。

『オキシジェン・デストロイヤー』は科学的・技術的探究と公共の福祉の乖離(?)といった、原子力開発などにも通じる普遍的なテーマとつながっているので、いま最初の『ゴジラ』を観ると、その現代性を再発見させられる感覚を味わう。拡散してしまった『オキシジェン・デストロイヤー』を如何に管理するか、となると、これはこれでシリアスではあるがドラマにはなりにくい。これを書きながらつらつら思うに、初代の『ゴジラ』はパンドラの箱を自らの意志で封印した男の物語と理解することができる。それはだからとても格好いいのだが、神話をねじふせようとしてバチが当たったのが、その後のゴジラ・シリーズということなのかもしれない。