ノット指揮東京交響楽団のブルックナー交響曲第7番

生前、評価を得るのに四苦八苦したブルックナーにとって、交響曲第7番は『テ・デウム』とともにもっとも成功をみた自慢の曲だが、私はあまり得意ではない。おそらく彼の10曲の交響曲(習作のヘ短調交響曲を含めると11曲)の中で、個人的にはもっとも聴く回数が少ないのが7番かもしれない。第1楽章の伸びやかな美しさは疑いようがないし、第2楽章に置かれたアダージョも同様だが、4楽章で性急に解決を図ろうとするように感じられるところが腑に落ちない。そう感じる人は少なくないはずで、コリン・デイビスのような指揮者は第3楽章と第4楽章を順番を変えて演奏したりしている。それで収まりがよくなるという感じもしないのだけれど。

でも、あえて好きな演奏を録音から選ぶとすれば、世評に高いマタチッチとチェコ・フィルあたりだろうか。第8番とともに晩年の名録音となったカラヤンウィーン・フィルでもいいし、実演で聴いたことがあるヨッフムでも、風格のクレンペラー盤でも。この曲は、構えの大きい、伸びやかに歌う演奏であればOKという程度で、実演に臨む際の期待も希望もほどほどなのである。だから、先月聴いた(ブログには感想を書くのをパスした)カンブルランと読響の、「楽譜を読むと、こういう演奏が可能なんだよ」という企みに満ちた演奏もそれなりに楽しめるし、この日のノットと東響のような、別の意味で昔ながらのブルックナーとは一味違う演奏も面白いと思う。

1楽章も、2楽章も遅かった。その遅さは、丁寧に歌を紡ぎだす意図から出てきたもののように感じられ、如何にもブルックナーの7番にふさわしいアプローチだと思える。ノットの精密さとそれに応えようとするオーケストラの良心が実にきれいなアンサンブルを生み出し、その点では指揮者の意図に楽員の全員がついていけてないというか、演奏に粗さが見えたカンブルランと読響に比べると断然いい演奏だった。組み立てが緻密で、響きの綺麗なことは、このコンビの仕事の丁寧さの結果である。下世話な感想だが、「数千円はたいて聴きに来たんだから、いい仕事を聴きたいです」という期待をクリアしてくれるところは実に信頼がおける。

ただ、その美点の裏返しで、ドイツのオケがやる昔ながらのブルックナー像と比べると、自然さ、伸びやかさ、おおらかさは聴こえてこない。東響の響きは重心が高めで、フォルテは音が硬いし、浪漫を理知で実現しようというノットと東響には本質的に破綻も遊びもない。カールツァイスではなく、日本製のカチッとしたニコンやキャノンのレンズを通してみたブルックナーである。ドイツの曲をドイツ人のようにはできません、そこを望むと無理がたたっていいことはありません、という意味では理にかなっており、指揮者とオーケストラの志向はものすごく合っていて、いいんじゃないかというのが目下の結論である。この先の展開を追ってみたいコンビだ。