梅野記念絵画館で「All is vanity. 虚無と孤独の画家――山本弘の芸術」を見る

  山本弘という絵描きさんを知っている人は多くはないはずです。よほどの絵画好きでもない限り、知りようがない存在ですが、『mmpoloの日記』の曽根原正好さんとの縁で知ることになり、切っても切れない間柄になったという意味では、私にとってのブログの仲間の一人と言ってよいような存在です。と言っても山本弘は存命の方ではなく昭和40年代に亡くなった方なのですが。
  曽根原さんは山本弘の絵を描かない弟子を名乗るブロガーで、長野県飯田市で活動し、全国的には無名の存在だった山本の名声を広めることに一生を費やしてきた(とおそらく言ってよい)方です。東京の画廊で作品展示の機会があると、都度お知らせを頂いていましたので、それなりに山本弘の絵は見てきたのですが、生まれ故郷の長野県で、これまでにない規模で回顧展を催すと曾根原さんからお知らせを頂き、先週足を運んできた次第です。

 

 

  最初に見た時から山本弘の絵に惹かれるものを感じたのは、私が好きな佐伯祐三と画風に似たところがあったからだと思います。パレットナイフを使った大胆な筆遣いと、描かれた対象を超えたフォルム、あるいはそのフォルムを超えて色と絵の具そのものを生ある生き物のように描き出す山本弘には天才の技を感じずにはいられません。まずは、そこに惹かれ、この天才が実生活では十代から自殺願望に取りつかれ、ついには家族を残し縊死を選んだと知ると、今度は絵を見るたびに、その事実のいたたまれなさが常に降り注いできて、その作品を見る目に特別なフィルターをかけられるようになります。それは、やっぱりね、というべき感想なのですが、死につつ生きる思いを抱えた者が描く絵が山本弘の作品であるということです。

 

 

  しかし、この山本弘という人は、作品を見た限りは昭和初期の絵描きさんだとしか思えません。想像するに、ご本人は表現主義とか、フォービズムとか、そうした絵画史上のスタイルから影響を大きく受け、そうした様式を自らに取り込み、自ら自在に扱えるのものに昇華して山本弘ならではの作品を残したのでしょうが、絵画を売り物として見た場合、それはあまりに時代錯誤的で、理解者を得るのが難しかったのは致し方がなかったと思えてしまいます。時代を語る、時代に賞賛される絵ではない。時を超越した、人の感情に訴える類の絵です。

 



 

  展覧会は油彩画が60点ほど、素描が20点ほどありましたでしょうか。それらを10の“章”に分けて展覧する試みは、山本弘を紹介し、理解してもらうための要約の仕組みとして大変よく出来たものであったと思います。絵にほんのりとスポットライトを当てるライティングも素敵でした。

 



 

  梅野記念絵画館というところは、しなの鉄道の田中駅から5キロ少々。車がないと、タクシーか、あらかじめ個人名を登録して使う乗り合いタクシーでしかアクセスできない場所にあり、それはそれは不便なところでした。だいたいしなの鉄道ってどこよと思う方がほとんどでしょうし、地元の人以外来なくてもよいよと言っているような施設ですから、面倒ではありましたが、行ってよかったと思います。

 

 

  北風が冷たいけれど、秋の日が燦燦と降り注ぐ日で、美術館からは浅間山の方面がくっきりと見えました。

 

 

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その日、柏手を打って

瓦礫があちこちに積み重なった戦後のウィーンに知人を訪ねたら、当人は先日なくなったと伝えられ途方に暮れる。金沢赴任の夫が行方知れずになって東京から調査に出向く女性。そんな小説が今の時代に描けるかと問われたたら、できなくはないが相当の筆力が著者に必要とされると答えるしかない。インターネットや監視カメラの網の目をかいくぐって一般人が不意に姿を隠すのが容易ではない時代に我々は生きている。と思いきや、ある日、突然に行方をくらます人の数は少なくないとテレビや新聞の報道は言う。夜逃げ、駆け落ち、神隠し。どこか、言葉の届かない薄暮の闇の向こうに落ちていくような、神様や妖怪との道連れを選ぶような、昔ながらの逃避のイメージとは異なり、自分の意志で誰かがいなくなることは、デジタルの時代のこの社会に仕組まれた負の機能がもたらす乾いた必然のように感じられ、そこで思考が止まる。

間瀬の伊豆みかん

  数十年来お世話になり続けているYさんから伊豆の銘菓を頂きました。熱海の山と海の境目にちょこんと鎮座している網代駅の、改札口を出ですぐにお店がある間瀬は、かつて水まんじゅうをYさんからご馳走になったことがあり、そのおいしさにほれぼれとなったお菓子屋さんです。なんでも出来て150年だそうで、こんな小さなお店が、それなりに小さなままで残り続けるのは日本のフシギかもしれません。そのおいしさを知ると、あと50年、100年と続いてほしいと思います。そういうお店が、まだ日本にはありますけれど、そういう存在の一つだと思います。

  で、このたび頂いた「伊豆みかん」というお菓子ですが、名前そのままにみかんを寒天に包んできれに仕上げられています。その見た目は、パッケージも含めて伊豆のミカンというしかない出来上がり。冷蔵庫で冷やして頂くと、ひなびた網代の駅を思い出します。ネットで取り寄せることもできるようですが、できたらあそこまで足を運んでおみやげにしたい。そんなことを思ったりしますが、でもネットで買えるなら、それに越したことないですね。これを読んでいる数少ない読者の皆様にはもれなくお勧めします。

www.mase-jp.com

WBCはダルビッシュの大会でしょう

WBCは天邪鬼ではない、ほとんどの野球好き日本人にとってハッピーな時間でしたね。で、大会が終わって数日が経った今もテレビを付けると大谷さんの話一色なんですけど、本当はもっとダルビッシュさんの貢献とメッセージについて語るべきだと思いますけどね。

ネットのニュースやテレビを見る限り、「楽しむ」を掲げたダルビッシュさんは日本代表チームに大いなる影響を与えたようです。でも「楽しむ」ことをできないのは、日本人のあらゆる活動について足りない部分だから、話はそこにまで届く必要がある。ダルビッシュは、そこまで影響を及ぼしたかったのではないのかな。少なくとも、高校野球だとか、少年野球だとか、そういうところまではね。

誰もいない坂道で歌を歌う

  誰も来ないブログというのは、おそらくそういうものでしょう。気がせいせいして、なんだか風通しがよく、この風景は悪くはない。どんな風景か。よく分かりませんけどね、少なくともここは公道で、いつ誰が来るかもしれず、やはり誰も来ないかもしれず、そんな思いを抱きながら、言葉を書き記すと、パソコンの画面が日本語のフォントで潰れていく。その様を見ていると、自分なりに風景が立ち現れるように思えてくるから不思議なものです。

  大江健三郎さんが亡くなったとのニュースが流れました。開高健も、石原慎太郎も、大江健三郎もいなくなりました。

 

あまりに自分本位なクラシック演奏家たち

クラシック音楽のコミュニティ向けに情報提供を長く続けている友人との会話のなかで「極端に言うと音楽家はあまりに自分本位」という一言を耳にしました。バスの中から見た街の一コマのように、目の前に突然現れて去っていったその言葉が、具体的に、音楽家たちのどのような行為や発言を意味しているのか、追って尋ねることをしなかったので詳細は分かりませんが、でも、なんとなく分かるような気がするのが面白いところです。

クラシックの演奏家として仕事をしている人たちは、その多くが子供の頃から、「飛雄馬よ、あれが巨人の星だ」と天を指し示されて、そこに向かってがむしゃらに走ってきた人たちなのだろうと思います。しかも、巨人の星を目指し、程度の差こそあれ、周囲の仲間から抜きんでた能力を示し、音楽大学で然るべき成績を残し、コンクールを受けて受賞し、といった人たちですから、自分の技術や業績に自信を持つのが当たり前ですし、それがなければおそらく常に生き馬の目を抜く世界で生きていくのは難しいだろうことは大いに想像ができるところです。

そうした人たちが「あまりに自分本位」な傾向を帯びることは、一般論としては往々にしてあり得ることではないかと思われます。ある特定の社会領域で成功を収めた人、自分は素晴らしいと信じている人たちが「あまりに自分本位」に振る舞うさまを見るのは、珍しいことではありません。狭い会社組織の中でも、それはある意味日常茶飯事かもしれず、現に私が十数年勤めたIT会社のトップマネジメント、その下で上を狙っている上級管理職などの人たちには「あまりに自分本位」な人たちが一定程度交じっていましたし、私は本当には知りませんが、歌舞伎やお茶、お花などの伝統芸能の世界なんぞはたいへんじゃないかと思ってしまいます。

ですので、社会が承認するとびきりの技能を持つ人たちがそうした傾向を持つのはおそらく珍しいことではないでしょう。ただ、クラシック音楽の場合は、「あんなに美しい演奏をする人の心はとても美しいに違いない」という、それこそ美しい誤解が紛れ込む余地があり、話がややこしくなります。ピアノコンクール出場者の群像を描いた『蜜蜂と遠雷』という小説が本屋大賞を受賞しましたけれど、そこに出てくるピアノ奏者の少年少女たちの心のきれいさなさまは、そうした我々大衆の暗黙の前提があるが故に、作品世界としてそれほど不自然には見えない。作者はクラシック音楽という小道具を用いることで、作品が提供する作為的な状況設定に、読者をいつの間にか巻き込むことに成功しているということができます。

でも、演奏家がその分野で秀でた技能者であることは間違いないとしても、美しい音楽を奏でるのに美しい心が必要なわけではありません。これは考えてみれば当たり前のことなのですが、そうした思いにいざなうことができる事実にこそ、バッハやモーツァルトの音楽のすごさがあるということもできるかもしれません。でも、少なくとも音楽が素晴らしいから人格的に優れているであるとか、音楽が優れているから思想的に洗練されているといった演奏家は、ほとんど存在しないのではないでしょうか。音楽の良し悪しとは別に人格的に優れている音楽家や、思想を持つ音楽家がいたとしても。

逆に「あまりに自分本位」なさまが興味深い音楽家はいくらでも見つかります。グレン・グールドは「あまりに自分本位」であるが故に傑出した演奏を生み出し、思想家としての側面も注目された存在ですが、これほどポジティブに自分本位さが際立つ人はあまり知りません。ポジティブかどうかは置いておくとして、「あまりに自分本位」な話は、ワルターカラヤンベームクレンペラー、その他の大指揮者にも往々にしてついて回る話で、ノーマン・ブレヒトという著述家は、その手の裏話をしこたま仕入れて『巨匠神話』なる本を出し、クラシック好きの間で大ヒットとなりました。21世紀が訪れる直前ぐらいの話です。

リスナーにとっては、別に性格的に変な奴だろうが、音楽が素晴らしければそれでよいと私なんかは思います。例えば、アメリカ人指揮者のジェイムズ・レヴァインは、メトロポリタン歌劇場の指揮者として大成功し、80年代から90年代、0年代にかけてアメリカを代表するスター指揮者でしたけれど、亡くなる直前は若い頃の性的虐待疑惑が表沙汰になり、その他のやりたい放題もほじくりだされて、今ではあまり思い出したくないと思う人が多いのでしょう、ほんとに名前を聞かなくなってしまいました。

でも、私は音楽さえよければ、それでいいじゃんと思ってしまうのです。とはいえ、やっぱり生身の人間がそこにいれば、その手の情報に邪魔されるのも人の性。ちょっと相手にするのははばかられると思ってしまった先生の演奏は、聴いていても楽しくないかもしれない。「あまりに自分本位」な人物が大好物という好事家はさすがに聞いたことがないし。だから、物故者の録音はある意味安心して聴けます。誰にも邪魔されず、もてはやされていた頃にはほとんど聴かなかったレヴァインを、感心して聴く今日この頃です。