あまりに自分本位なクラシック演奏家たち

クラシック音楽のコミュニティ向けに情報提供を長く続けている友人との会話のなかで「極端に言うと音楽家はあまりに自分本位」という一言を耳にしました。バスの中から見た街の一コマのように、目の前に突然現れて去っていったその言葉が、具体的に、音楽家たちのどのような行為や発言を意味しているのか、追って尋ねることをしなかったので詳細は分かりませんが、でも、なんとなく分かるような気がするのが面白いところです。

クラシックの演奏家として仕事をしている人たちは、その多くが子供の頃から、「飛雄馬よ、あれが巨人の星だ」と天を指し示されて、そこに向かってがむしゃらに走ってきた人たちなのだろうと思います。しかも、巨人の星を目指し、程度の差こそあれ、周囲の仲間から抜きんでた能力を示し、音楽大学で然るべき成績を残し、コンクールを受けて受賞し、といった人たちですから、自分の技術や業績に自信を持つのが当たり前ですし、それがなければおそらく常に生き馬の目を抜く世界で生きていくのは難しいだろうことは大いに想像ができるところです。

そうした人たちが「あまりに自分本位」な傾向を帯びることは、一般論としては往々にしてあり得ることではないかと思われます。ある特定の社会領域で成功を収めた人、自分は素晴らしいと信じている人たちが「あまりに自分本位」に振る舞うさまを見るのは、珍しいことではありません。狭い会社組織の中でも、それはある意味日常茶飯事かもしれず、現に私が十数年勤めたIT会社のトップマネジメント、その下で上を狙っている上級管理職などの人たちには「あまりに自分本位」な人たちが一定程度交じっていましたし、私は本当には知りませんが、歌舞伎やお茶、お花などの伝統芸能の世界なんぞはたいへんじゃないかと思ってしまいます。

ですので、社会が承認するとびきりの技能を持つ人たちがそうした傾向を持つのはおそらく珍しいことではないでしょう。ただ、クラシック音楽の場合は、「あんなに美しい演奏をする人の心はとても美しいに違いない」という、それこそ美しい誤解が紛れ込む余地があり、話がややこしくなります。ピアノコンクール出場者の群像を描いた『蜜蜂と遠雷』という小説が本屋大賞を受賞しましたけれど、そこに出てくるピアノ奏者の少年少女たちの心のきれいさなさまは、そうした我々大衆の暗黙の前提があるが故に、作品世界としてそれほど不自然には見えない。作者はクラシック音楽という小道具を用いることで、作品が提供する作為的な状況設定に、読者をいつの間にか巻き込むことに成功しているということができます。

でも、演奏家がその分野で秀でた技能者であることは間違いないとしても、美しい音楽を奏でるのに美しい心が必要なわけではありません。これは考えてみれば当たり前のことなのですが、そうした思いにいざなうことができる事実にこそ、バッハやモーツァルトの音楽のすごさがあるということもできるかもしれません。でも、少なくとも音楽が素晴らしいから人格的に優れているであるとか、音楽が優れているから思想的に洗練されているといった演奏家は、ほとんど存在しないのではないでしょうか。音楽の良し悪しとは別に人格的に優れている音楽家や、思想を持つ音楽家がいたとしても。

逆に「あまりに自分本位」なさまが興味深い音楽家はいくらでも見つかります。グレン・グールドは「あまりに自分本位」であるが故に傑出した演奏を生み出し、思想家としての側面も注目された存在ですが、これほどポジティブに自分本位さが際立つ人はあまり知りません。ポジティブかどうかは置いておくとして、「あまりに自分本位」な話は、ワルターカラヤンベームクレンペラー、その他の大指揮者にも往々にしてついて回る話で、ノーマン・ブレヒトという著述家は、その手の裏話をしこたま仕入れて『巨匠神話』なる本を出し、クラシック好きの間で大ヒットとなりました。21世紀が訪れる直前ぐらいの話です。

リスナーにとっては、別に性格的に変な奴だろうが、音楽が素晴らしければそれでよいと私なんかは思います。例えば、アメリカ人指揮者のジェイムズ・レヴァインは、メトロポリタン歌劇場の指揮者として大成功し、80年代から90年代、0年代にかけてアメリカを代表するスター指揮者でしたけれど、亡くなる直前は若い頃の性的虐待疑惑が表沙汰になり、その他のやりたい放題もほじくりだされて、今ではあまり思い出したくないと思う人が多いのでしょう、ほんとに名前を聞かなくなってしまいました。

でも、私は音楽さえよければ、それでいいじゃんと思ってしまうのです。とはいえ、やっぱり生身の人間がそこにいれば、その手の情報に邪魔されるのも人の性。ちょっと相手にするのははばかられると思ってしまった先生の演奏は、聴いていても楽しくないかもしれない。「あまりに自分本位」な人物が大好物という好事家はさすがに聞いたことがないし。だから、物故者の録音はある意味安心して聴けます。誰にも邪魔されず、もてはやされていた頃にはほとんど聴かなかったレヴァインを、感心して聴く今日この頃です。

フルートの楽しみをあらためて思い起こす

素人の笛吹が芸大出の若い先生に少し教わったフルートですが、パソコンのタイピングで痛めていた腱鞘炎がひどくなり、結局1年少々でギブアップしてしまいました。残念といえば残念なのですが、これも物事の自然な成り行きかなとも思います。

 

若いころかじっただけのフルートを体系的に教わるのは初めてで、1年であそこまでいけたら、もう少し先まで続けてモーツァルトのフルート協奏曲までさらいたかったなあと思います。でも、自分が一番フルート曲で好きなJ.S.バッハ無伴奏パルティータ4曲をまがりなりにも吹けるようになったのはうれしかった。

 

今、その曲を同じように吹こうとしても、吹けません。こればかりは毎日の精進のたまものなので。でも、数か月に一度、思い出したように笛を手にして、自分の息が、その時にしか存在しない生の音を生み出した時の喜びには格別のものがあります。

NHK交響楽団のウィーン新聞評の日本語訳について

久しぶりの投稿になります。

 

NHK交響楽団が2年ぶりの欧州公演をやっていて、その評の日本語訳が次々とN響のホームページで紹介されている。あちらでの評価が気になる、あるいは良い評判を待っているN響ファンがたくさんいるということなのだろうと思う。

 

で、その中からウィーン新聞(Die Wiener Zeitung)の評なのだが、ブルックナーについて書いてある日本語訳が腑に落ちない。私のドイツ語はそもそもお粗末で、これだけの文章もしっかりとは読めないのだが、この訳がちょっと変なのは間違いない。

 

原文はこれ。

 

Zugegeben, das traditionsreichste japanische Orchester hatte nicht seinen allerbesten (und die Bläser nicht ihren kieks- und wackelfreien) Tag. Aber wie sich die massiven Speckstein-Formationen hier kantenlos auftürmten, in ungeniert vollem Klang und mit schmetterfreudigem Blech, das war gerade in den Außensätzen eine beeindruckende Bruckner-Demonstration. Dass sich Dirigent Paavo Järvi dabei auf sein Orchester und dessen Tradition einlässt, ist schon daran erkennbar, um wie vieles schlanker dieser Bruckner zum Beispiel mit dem hr-Sinfonieorchester unter der Leitung des Pultstars klingt.

https://www.wienerzeitung.at/nachrichten/kultur/klassik/2052521-Konzerthaus-Lauschen-ueber-den-Tellerrand-hinaus.html

 

で、N響ホームページでは以下のように訳されている。

 

伝統を誇る日本のオーケストラにとって、この日の公演は最も絶好調とはいえなかったようだ(管楽器もブレが全くなかった訳ではない)。しかし、まるで蝶が羽ばたくかのような金管楽器群の広がりと共に、精気を奮い起こす境目のない驚異的なフルサウンドは、とりわけ第2楽章のコーダでブルックナーを強く印象付けられた。首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィが、このオーケストラとその伝統にいかに深く関わっているかは、例えばhr交響楽団を指揮した演奏と同じブルックナーを遥かにスリムに感じることからも明らかだ。

https://www.nhkso.or.jp/data/EuropeTour2020_review12.pdf

 

 

「精気を奮い起こす境目のない驚異的なフルサウンド」というのがよくわからないのと、「第2楽章のコーダ」とあるのが、本当にそうなのかが疑問である。

 

私のは、ちゃんと訳出できていない部分も含めて見ていただくが、次の通り。

 

この日,長い伝統を持つ,この日本のオーケストラが絶好調ではなかった(そして管楽器は凡ミスがないとは言えなかった)のは認めないわけにはいかない。しかし,巨大なソープストーンの地層が境目なく積み重なるような、臆することない巨大な響きと、蝶が喜ぶような金管楽器。これはAußensätzenにおいては実に印象的なブルックナー演奏であった。その演奏において、指揮者のパーヴォ・ヤルヴィが彼のオーケストラとその伝統を尊重しているのは、例えばマエストロが指揮するhr交響楽団と比べ、このブルックナーがはるかにスッキリとしている点を見れば明らかである。

 

よく分からないフレーズが短い文章の2箇所にある。

まず、「wie sich die massiven Speckstein-Formationen hier kantenlos auftürmten」という部分。これは「巨大なスペックシュタインの地層が境目なく積み重なるように」と読めるが、「シュペックシュタイン」というのが何かが分からないので、著者が何の比喩を語っているのかが明瞭ではない。

ネットで調べてみると、「シュペックシュタイン」は英語では「ソープストーン」というもので、長い年月をかけて出来上がる変成岩。石鹸石というらしい。とっても柔らかい岩で、古代から彫刻の素材として使われてきたものなんだそうな。

https://en.wikipedia.org/wiki/Soapstone

 

とすれば、この文章は彫刻の材料のようなきれいな響きが溶けるように重なり合っているという褒め言葉のようである。ただ、N響の訳にある「精気を奮い起こす」というのはどこから来たのか分からないし、「驚異的な」フルサウンドというのはサービス翻訳ではないかと思う。

 

問題なのが「Außensätzen」という単語である。「Außen」という言葉と「sätzen」(Satzの複数形)の組み合わせ。「Satz」は音楽では「楽章」だとか、「楽節」を指すドイツ語。「Außen」の方は「外側に(の)」の意味で、対語になる「内側に(の)」は「Innen」。ということは、「Außensätzen」は「外側の楽節(複数形)」であり、外声部という意味ではないかと思うのだが、どうだろうか。つまり、評の文章は「メロディの流れはとてもよかった」というような意味ではないかと思う*

少なくとも「とりわけ第2楽章のコーダでブルックナーを強く印象付けられた」は、日本語の作文としか思えない。

 

最後の一文もN響の翻訳は分かりにくいが、要は「演奏はスッキリだったのは、ヤルヴィがN響の特色を活かした結果だ」という意味だと思う。ヤルヴィがN響ブルックナーを演奏して、それがウィーンの批評家に「スッキリ」聴こえたというのは、さもありなん。

 

*これを書いた後に友人の音楽評論家に訊いてみたら、「Außensätzen」は文字通り「外側の楽章」で、つまり4つの楽章のうちの「外側」、第1楽章と第4楽章を指すのではないかと教えてもらった。なるほど! たぶん、これが正解です。外側に置かれた2つの楽章がよかったということですね。

習い事の価値

私が敬愛する小説家の開高健は、おそらく運動不足や不養生に端を発するものであったろう体の不調に対処するために、50歳を過ぎてから週に2日の水泳を始めた。晩年の彼は、数々のエッセイで、様々な変奏を行うようにその「五十の手習い」に触れている。開高の水泳に相当するのが私の場合にはフルートで、まさかこの歳で再開するとは思ってもみなかった笛吹きを40年ぶりにリスタートし、あまっさえ先月からはプロの先生に教わる次第となった。

 楽器で音楽を奏でること自体、それは常に新しい驚きと楽しさに溢れた時間なのだけれど、それについては、これまでの人生でも知らないではなかった。しかし、教わることとなると話はまったく別で、たった2度、45分の短い教授を得ただけなのに、笛を吹く楽しさは倍加する事態となり、専門家というか、メンターというか、そういう存在の凄さに新鮮な衝撃を受けている。

 この前書いたように、子供の頃からじじいの入口に到達した現在に至るまで、そもそも習い事をするのが生れて初めてである。学校には行ったから、先生の存在は知っているが、今回の先生は学校の教師とはちょっと違う。明確な目的のためにお金を払って、一対一の授業。そういう形態の習い事には縁がなかった。マン・ツー・マンの懇切丁寧な授業などと聞くと、私自身は行ったこともないないが、コマーシャルはやたらと目にする英会話学校だとか、アルプスの少女・ハイジだとかを思い出す次第で、そういうのをやたらすぐに思い起こすこと自体、性根がねじまがっているというか、心が偏見に満ちているというか、素直にその種の価値を信じられない美しい性格を如実に表している。

 もっとも、そうした疑いを抱く根拠というのも、思い起こせばしっかりとあるのであり、自分の子供がかつて予備校の講師をしたり、某非営利団体で子供を教えたりしているときに、それともなく、あるいは鬱憤を吐き出すように語っていたところが頭によぎる。宣伝は格好よいが、実質が伴わないセンセ、そんなセンセですら十分な人数を確保しないまま悪徳な商売をたくらむ輩は平成元禄の日本にはびこっている気配があるのであり、そんな中で、よいセンセを見つけて成果を上げるのは、簡単にできるとは限らない。違うだろうか?

というのもあるが、そもそも型にはめられるのを極端に怖がる性格に問題はあるのである。私は学校とか、先生とかいうものがきらいで、今でも学校に遅刻するだとか、学校の単位数を間違えて卒業できないだとか、ろくでもない夢を頻繁に見る。であるからして、何を好き好んで自ら学校や先生につくなどという愚行をおかすことがあろうや。と、私はたぶん思っていたのだ。

でも、今回のセンセは本物の本物だった。私は単に運がよかったのか、センセに習うとはそういうものなのか、よく分からない。答えはその間にありそうだが、今回は「あたり!」の感覚は強くある。人生、たまにはあたりもなくては。

生れてはじめての習い事

もう5か月もブログを書いていないということに気がついた。しばらくご無沙汰していたけれど、そんなに長くほったらかしにしていたとは思わなかった。

この間、何をしていたのかというと、自由になる時間を使ってフルートを吹いていた。ほぼ40年ぶりのことだ。何かやり始めると夢中になってしまうところは確かにあり、体調のよい時間帯に、体力向上と気分転換のために、ということだが、それ相応の時間を費やして、音はかすれる、指はもつれる、楽譜は読み誤る、息は絶え絶えという必ずしも快適とばかりは言えない時間を物好きにも過ごしてきた。とくに7月から9月の間には、短時間なりとも楽器を触らなかった日はなかったかもしれない。音楽をするのは、つまり好きなことをするのは文句なく楽しい。

で、興が乗ってしまい、プロの先生に教わることにした。楽器を専門家に教わるのは初めてだし、それどころかソロバンも、習字も、水泳も、ピアノも習ったことがなく、学習塾にも行ったことがない。そんな人間が、還暦直前の手習いで、急に思い立って習い事をすることにした。実は、ひと月前にメッセンジャーで下川さんとやり取りをした際に、フルートを吹ているとお話をしたら、「どこかで習っているのか」と尋ねられ、「我流です」と答えたあたりから、なんとなく「習う」という言葉が頭に残ることになった。家族の勧めもあり、流れに乗って今晩初レッスン。ともかく素人相手なりに基礎を鍛えてもらいます。

この話題はこれでおしまい。

大将が腹を切れと言えば、切れなければならない社会はなくならなくてはならない

米式蹴球の世界が俄然賑やかになっている。信じられないことにテレビのトップニュースだ。かれこれ12年間も選手を続けている我らが蹴球家によると、件の紅組大将が「イカれている」のは、業界では周知の事実だそうで、今回の出来事は「さもなりなん」を超えた場所で展開された一件のようである。

それにしても、日本人の100人に1人もちゃんと試合を見たことがないであろう弱小体育種目であるところの米式蹴球の一つの反則行為が、如何にそれが悪質であるにせよ、社会問題化するまでに至ったのには、いったいどういう理由があるからなのか。一歩間違えると恐ろしい社会が待っている感じはするし、それは自分が知らないだけで日本はとうにそういう社会に足を踏み入れているのかもしれないが、しかし、旧来は決して問題にならなかった不条理な権力者の横暴が、ITの手助けも借りながら暴かれるのは、お相撲さん然り、西洋相撲さん然り、官僚さん然り、それ自体はとてもよろしい傾向である。大いにやれと言いたい。

今日までの展開で皆が納得していないのは、紅組大将が逃げの姿勢を決め込んでいるから、大将の組織がなあなあでそれを許しているのが不愉快であるからだろうが、前述の米式蹴球家によれば、そもそも日本の米式蹴球は「大将が腹を切れと言えば、切れなければならない」というほどの超全体主義社会であるそうで、その話を聞くと不愉快さはさらに募る。

しかし、「大将が腹を切れと言えば、切れなければならない」不愉快さが存在するのは何も弱小体育の世界だけではないし、政治の世界だけでもない。ズームアウトとズームインを繰り返して我らがニッポンを見れば、それに近い不条理は日常のあちこちに転がっている。理不尽さに負けない個人が育つ社会がよい社会ではないかと思う。そういう社会が実現するためには、しっかりと言葉で相手に向かっていく勇気が当の個人に必要なのだが、そうした人が育つ教育が行われているかと考えると、個人的に見聞きできる限りにおいて、教育の現場にも子どもを抑え込む形優先の不条理がはびこっていないか、心配になったりもする。杞憂であればよいけれど。

ボチボチでんな

またまた大谷翔平選手に関連した記事の話になるのだが、こんなのがあった。


大谷翔平、左腕から初Hは先制適時打 エンゼルスは控えめ?称賛“ボチボチでんな”(2018年4月12日、THE ANSWER編集部)
https://the-ans.jp/news/21634/


4月12日のエンジェルスの公式インスタグラムが、大谷選手について「So far, so good!」をもじって「Sho far, so good!」という見出しの動画を公開したという、ただそれだけの記事。目を引いたのは、日本の記事が、この「Sho far, so good!」について「ボチボチでんな」という日本語をあてているところだ。

「So far, so good!」は、普通に訳せば「これまでのところはすごくいい」ということだと思うが、THE ANSWER編集部はこう書いている。

エンゼルス公式インスタグラムが「so far so good(ボチボチでんな)」をもじった「Sho far, Sho good!」とつづり動画付きで公開。


果たして、この「ボチボチでんな」が、「So far, so good!」の翻訳として成立するのか否かが非関西人の自分にはよく分からない。どうなんだろう?

日本語の記事の見出しは、「大谷翔平、左腕から初Hは先制適時打 エンゼルスは控えめ?称賛“ボチボチでんな”」なので、見出しをつけた編集サイドが「So far, so good!」の本来のニュアンス汲めていないのは明らかだが、ライターさんがどうしてまた「ボチボチでんな」とやったかのかは謎だ。この人は関西人で、「So far, so good!」という言葉を読んだとたんに自然と「ボチボチでんな」という言い回しが浮かんだのだろうか。大阪の人は「どうでっか?」と尋ねた相手が「まあ、ボチボチでんな」と返してきたら、「So far, so good!」という回答を得たと自然と受け取るのだろうか。状況によっては十分にありえるかもしれないが、果たしてこの記事でも、それが当てはまるのか。日本語は難しい。

ところで、ちょうど1年前の4月27日に12時間かかる手術を受け、長い入院をした。多くのブログの仲間にも勇気づけられて、なんとか術後2年めを迎えるところまできた。皆さん、本当にありがとうございます。今の気分を一言でいえば、「So far, so good!」です。