デニス・マツーエフはすごかった

先週、テミルカーノフの指揮する読響を聴いた。テミルカーノフショスタコーヴィチ交響曲第10番を振るので聴きに行こうと考えて買ったチケットで、ショスタコーヴィチの前に置かれた一曲目がプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番というのは知っていた。賑やかな曲が2本立てね、というぐらいの認識でサントリーホールに足を向けたのだが、そのピアノがすごかった。

ずっと以前にも書いたことがあるが、90年代以降、新しい演奏家を狩猟するような聴き方をしてこなかったので、若い演奏家はよく知らない。この日のソリストがデニス・マツーエフというロシアのピアニストで、チャイコフスキー・コンクールの優勝者だと知ったのは開演の5分前に当日のプログラムを読んだとき。チャイコフスキー・コンクールの優勝者とすれば、知名度があり、それなりの演奏が聴けるのだろうとなと思ったのは、私が無知であったが故の月並みな反応に過ぎない。その演奏には驚いた。

チャイコフスキーを取った人だから、やたらと指が動くのは珍しくはないのかもしれない。それでも、ここまでやるかという凄まじさで、それが嫌味ではなく、さらに単なる指が動きます系のつまらなさとは一線を画した演奏だったから目を見張った。アンコールに弾いた2曲が出色もので、この人は超絶的な指使いを持つというだけではなく、それでもって歌をうたう。もしかしたら、どんな曲を弾いても作曲家よりも演奏家の色が前に出るタイプかもしれず、そういう意味では好き嫌いは極端に別れるタイプだとは思うが、コンサートに来て、事前知識がなく、この種のヴィルトゥオーゾを耳にする興奮は半端ない。ナマの音楽を聴く喜びだ。

おかげで読響の、普通の一流の音楽家の演奏はすっかり私の意識から飛んでしまった。マツーエフは見た目はでかい図体の、ロシアのおっとりとした熊さんみたいだったが、この繊細なヴィルトゥオーゾが、幼少のみぎりから虎の穴の訓練みたいなものにおそらくどっぷりとつかりながら、鍵盤を叩くことではなく、歌をうたうことを掴みとったのには、どんな秘密があるのかと考えてしまう。マツーエフはジャズの世界でも有名なのであるらしい。この日のアンコールで弾いた『A列車で行こう』のマツーエフ・ヴァージョンに接し、コンツェルトではなく、ぜひ次はリサイタルを聴いてみたいと思ったことだった。