『第三の男』と『ゴジラ』

この前のエントリーで“『第三の男』のリマスター版”という表現を書いたのだが、それを眺めながら、英語の記事では“restored 4k version”とあるが、これに、果たして生半可な知識で“リマスター版”という日本語をあててよいのか、やっぱりマスターを直したとは書いていないのだから、リマスターは誤訳か、でも修復するのは当の映画のマスターに違いないだろう、などと頭のなかで反芻するうちに“リマスター版”という言葉の連想で咆哮するコジラの顔が現れた。

昨年、NHKのBSで放送された『ゴジラ』の“リマスター版”を観た。幼児の頃に『ウルトラQ』や『ウルトラマン』を観た世代なので、『ゴジラ』が映画館にかかっていた頃はまだ生まれていない。物心がついた後に“名作”としてテレビで初めて鑑賞した一人だが、久しぶりに“リマスター版”を観て、あらためてゴジラ映画の中で、この『ゴジラ』のクオリティの、段違いの違いを認識させられた。

そんなわけで『ゴジラ』が意識の中に残っていたところに『第三の男』のことを書き、Youtubeから『The Third Man』の宣伝素材を貼ったりしているうちに『ゴジラ』と『第三の男』に似ている場面があることにふと気がついた。『第三の男』はジョセフ・コットン演じる小説家、ホリー・マーチンスが、悪事に手を染める旧友、オーソン・ウェルズ扮するハリー・ライムを追い詰める物語だが、警察の求めに応じて友人ハリーの逮捕に手を貸すことに逡巡するホリーが、最終的に意を決するのは、ハリー・ライムの密売したペニシリンの被害を受けて寝込む被害者を病院で目にしたことによる。ここが『ゴジラ』と重なる。

ゴジラ』では、ゴジラを倒す可能性を持つ破壊兵器「オキシジェン・デストロイヤー」の使用をためらう芹沢博士が、テレビで報道される被災者の様子、平和への祈りをうたう女子学生の姿に心を打たれて、兵器の一度だけの利用を承諾する。この場面、苦しむ多数の被害者の姿とそれを目にする主人公、すなわちホリー・マーチンスと芹沢博士の態度がまるで二重写しなのだ。二人は意を決する。
「ハリー逮捕に協力する!」
「オキシジェン・デストロイヤーを使う!」

ゴジラ』は米国の怪獣映画(『原子怪獣現わる』(1953年))に直接の刺激を受けて制作されたと伝えられているが、脚本にはいろいろな要素が混じっていて不思議ではないだろう。年表を見ると封切りは『第三の男』が1949年、『ゴジラ』が1954年。とすれば、脚本にも参画した本題猪四郎監督が、世界的なヒットをみた数年前の『第三の男』のプロットから刺激を受けるということがあったと考えるのは自然ではないかと思う。

つまり、二つの映画でエンディングに向け映画のプロットが最後のアクセルを踏む場面で、二人の主人公は義憤に駆られたのである。義憤に駆られた二人の男は、かたや友人を裏切って公共の福祉に奉仕し、かたや究極の破壊兵器であるオキシジェン・デストロイヤーの設計図を自分の命もろとも犠牲にして公共の福祉に奉仕する決心をする。それが観ている者の気持ちの昂ぶりを発動する。『第三の男』は、義憤の働く先を旧友にすることによって、この映画を永遠の名画とし、一方の『ゴジラ』はそれを怪物ながら水爆によって眠りを覚まされた存在とすることで、それにさらに主人公の自死を重ねることで、それぞれの仕方での悲劇を完成させる。

二つの映画は、かように悲しき敵を設定することで成功をしたが、現実の世界では、義憤にかられて何ごとかを企んでもろくなことはないのが通例である。敵対する国民、敵対する信者、敵対する民族、敵対するカーストには自分を鏡に映したような人々と日常が存在していて、ハリー・ライムやゴジラのように都合の良い敵は決して存在していない。退屈な日常を生きるのには覚悟がいるということでしょう。