『時をかける少女』、ゴルトベルク変奏曲など

一昨日、帰宅してテレビのスイッチをひねったら細田守監督の劇場用アニメ『時をかける少女』を放映していた。まだ、始まってすぐの時間帯だった。じっと見たり、画面を離れて皿洗いをしたり。少し経った頃に大学生の娘が帰ってきて、テレビの画面に目をやるなり、「“時かけ”じゃん。またやってるの」。弟に向かってそう言って、テレビの前に立ち止まる。が、これも見たり、見なかったり。
時をかける少女』を原作にしたNHKの子供向けテレビドラマ『タイムトラベラー』はWikipediaによれば1972年だったらしい。僕は12歳か13歳だが、午後6時のたんなる安手のテレビドラマであるはずなのに、毎回楽しみに観たことを覚えている。なんとも不思議な雰囲気が当時の子供(であるわたくし)にも何か新しいイメージをもって受け止められた印象があるドラマだった。80年代の原田知世の映画は知らないが、アニメ映画は昨年テレビ放映時に初めて観た。

謎解きで見せる作品だから、「この先どうなるんだろう」がない二度目の視聴は、探偵小説同様つらいものがある。それでもけっこう観てしまうのは、テレビがついていると子供向け番組だろうが料理番組だろうが、つい観てしまう節操のなさに理由があるというだけではなく、やはり作品に力があるからだと思う。主人公の女の子がかわいいし、高校生の男の子と女の子の会話のやりとりもすごくかわいい。登場人物をしばしば日陰のくすんだ色合いのなかに置く映像処理が素敵だし、最初にタイムリープする場面で鳴るバッハの『ゴルトベルク変奏曲』(第一変奏が使われている)が嫌みのないアクセントになっている。

そうした、さまざまなマテリアルの扱いにみられるエンターテイメント作品としての洗練と、青春のはかなさ、人を慈しむ気持ちの美しさをやすっちいはずの青春ドラマに持ち込んだ筒井康隆の原作の味がかけ算になっているいい作品だ。その前の週には『魔女の宅急便』をやっていて、これは最後の30分ぐらいだったが、やはり久しぶりに観てとてもよい気分になってしまった。『魔女の宅急便』は、当時小学生だった子供たちと一緒にニューヨークの借家で何度観たかしれない。日本のアニメはつよいな。

時かけ”に感銘を受けたお調子者のわたくしは、久しぶりに『ゴルトベルク変奏曲』を取り出してあれこれと聴いたのだが、ペンギンのクラシック音楽ガイドの批評子が「無人島に持って行く一枚」と大絶賛するロザリン・トュレックの一枚が、落ち着いてはいるがいきいきとしたリズム感で、“ときかけ”を観た上向きの気持ちをますます高揚させてくれた。

余勢をかってというわけではないが、フィクションが読みたいと文藝春秋に掲載された芥川賞の受賞作品に手をつけた。しかし、これがうまくいかず、まるで読みすすめることができない。わずか数ページでページをめくる手が止まってしまった。40代ビジネスマンの著者ということで、仲間意識をもって読める作品なのじゃないかと期待をしていたのだが、芥川賞という制度が完全に終わってしまっているのか、いわゆる純文学を読めなくなっている私の問題なのか、よく分からないでいる。嘘だけど。

サマーウォーズ』観たいな、とか思ったり。