『倉橋由美子 夢幻の毒草』を見つける

昼休みに書店に入って文芸の棚をみたら、例の『日本語が亡びるとき』が置いてある。おぉ、例の本と手を伸ばそうとしたら、ちょうどその上の棚、水村本の真上に『倉橋由美子 夢幻の毒草』(河出書房新社)という薄い背表紙があるのが目に入り、出しかけた手は誘われるようにそちらを掴んでしまう。奥付を見れば、2008年11月20日初版印刷。できたてのほやほやだ。

前日、久しぶりに名前を書き記した作家に、このタイミングで出会ったのは、また何かの因縁と、単行本未収録作品を含むこの倉橋解説本を購入して帰る。『日本語が亡びるとき』などあっという間に意識の外である。

ぱらぱらとめくりつつ、拾い読みをする。最初の対談は川上弘美桜庭一樹という女性作家によるものだが、これはあまり面白くない。桜庭一樹という人は、最近賞を取った(芥川賞?、直木賞?)人らしいが、一度も読んだことがない。こういうものはいま響かなくてもよい。いつか思い出したように読み直して頷いたり面白がるかもしれないし、あらためて「なんと内容のない話であることよ」と嘲笑を繰り返すかも知れない。本というものは後まで残る。気軽な雑談を残すのは、とても勇気がいる行いだ。それもよりによって倉橋由美子の本である。

いちばん最後の方に川島みどり、田中絵美利のお二人による「全著作解題」のコーナーがある。『シュンポシオン』を読んでみる。

倉橋は、長編小説を「美酒と佳肴の供されるパーティーのようなもの」だと述べている。「美酒」の如き優美な言葉の数々と、古今東西の文学芸術への造形から紡ぎ出される「佳肴」の如き作品の世界観。「シュンポシオン」は、まさに「饗宴」の形をとった長編小説であり、倉橋文学の一つの極点をなすものと位置づけられるだろう。

『シュンポシオン』を読んで、あぁ、面白かったと、うっとりしながら巻を置く読者は、小説読みの中でも限られるかもしれない。僕は大江健三郎の政治思想に興味がないのと同様、倉橋由美子の社会観に惹きつけられることもないが、その文章を読むたびにミーハーファンの恍惚状態に陥る。思うのは、僕にとっての日本語はだいたいこの辺りで終わっているということだ。例えば、僕自身の文体は戦後文学と雑誌のそれの物まねで、それ以降の文学作品に文章を読む喜びを感じる機会はほとんどない。今さらに「日本語が亡びる」のがああだこうだと言わずとも、もう滅んでいるんだからいいじゃねえかと思うのが正直なところである。悲しくないのかと尋ねられれば、自分の居場所が狭くなることについてはやはり悲しいが、言葉が変化していくことには必然性があるのだから、多勢に無勢、その結果に対して文句を言っても仕方ないじゃないかと、まあそんなところだ。


シュンポシオン (新潮文庫)

シュンポシオン (新潮文庫)