『アーキテクチャの生態系』

今年の初めから出版社に勤め始め、最初は企業相手の商売をする部署にいたのですが、夏に一般書籍の部門に移りました。生まれて初めて仕事で本に囲まれる生活は、ある意味で天国のようで、しかし忌野清志郎が唄うように「いいことばかりはありゃしない♪」が本音のところでもあるのですが、こんな風に仕事が楽しいというのは二十年以上サラリーマン生活をやってきて初めてかも知れません。リサーチャーの時代にはリサーチャーならではの楽しさ、醍醐味があり、それは今思い出しても懐かしく、自分にとって素敵な時代でしたが、今の生活もそれなりに悪くはありません。もちろん「いいことばかりはありゃしない♪」ではありますけれど、よいことなんか爪の先ほどもないと思いながら仕事をしていた頃、漠然とした不安を抱え、先行きの見通しがまるでない中で、ただただ残業を重ねてがむしゃらに働く時間が少なくなかった若い頃を考えれば、「いいことばかりはありゃしない♪」で文句を言っていたら罰が当たるというものです。

この商売をしていて「良いことばかりはない」どころではなく、とても素敵なこと、掛け値無しによいことがあります。仕事で本が読めることです。最初の読者の一人として本の誕生に立ち会う、本のタイトル決定に参画する、こんな贅沢な本好きにとっては他にはないと言ってもよいでしょう。

ただ、勤め人としての私の立場は、商業的な価値判断の上に立って、利潤を会社にもたらす本を作り出す、そのための地ならしをし、判断を行うことにありますので、仕事の上での読書は常に楽しいとは限りません。自分自身にはまるっきり関心のない領域の本、知識のない領域の本、趣味に合わない本、それらをひっくるめて本と対峙する必要がありますから、けっこう苦しい部分が出てきます。ですから、逆に読者としての私自身とぴたりとはまるような本に出会ったときは、立場を超えた無上の喜びを感じる瞬間でもある。そのことを、出版社に勤め始めた見習い社員として実感し始めたところです。

そんな一冊を今日はご紹介したいと思います。『アーキテクチャの生態系―情報環境はいかに設計されてきたか』。著者の濱野智史さんは1980年生まれですから、まだ20代の若い研究者の方ですが、情報社会論の系譜に連なる本として、この本は掛け値無しにすごい。一般の読者に向けてインターネットの時代の新しい情報サービスが社会にもたらす変化とその意味、意義を語って高い説得力を持つという点では、梅田望夫さんの名著『ウェブ進化論』の次に挙げるべき本だと思います。その間に出た数多の(いや、もしかしたらすべての)類似書を顔色なからしめる凄みを持つ本です。

内容は、ブログ、2チャンネル、ミクシィニコニコ動画、さらには携帯小説といった新しいサービスが普及する現代日本のコミュニケーションの風景を、ローレンス・レッシグが言い始めた“アーキテクチャ”という概念を用いることによって解釈していく、そんな一冊です。技術が社会を刺激し、社会が技術の使い方を選び、ブログ、2チャンネルやニコニコ動画などの新しいサービスが日本の風土に根付いていく。その現状と背景を濱野さんは明晰で分かりやすい文体で腑分けし明らかにしていきます。情報社会論であり、見事な日本論でもあります。

この種の書籍が営業的に難しいのは、専門家による専門家のための言説にとどまる恐れが高いという理由があると思うのですが、読んですぐに理解できるとおり、濱野さんは優秀な研究者でありながら、この本では最初から最後まで、学者タイプの言葉の使い方を徹底的に避け、誰にでも読みやすい本として仕上げています。表記は「ですます」調です。また、ブログを書いたことがある読者にも、そうではない読者にも、あるいは携帯小説の読者にも、(私のように)まるで接したことがない者にも、あるいはビジネスで電子メディアにかかわるプロにも、それぞれの立場から読んで、自分自身の立ち位置に思いをめぐらすことを余儀なくさせる、そんな内容を提示しているのです。

そもそも学者が外から研究対象を眺めて書いた本は、対象に対する思い入れが十分に表現されておらず、場合によっては無味乾燥で、ときには勘所をはずしているんじゃないかと疑われたりもします。反対に当事者が愛情を込めて書いた本は、仲間内でしか通じないロジックとレトリックが支配的で、普遍的な表現を獲得できないで終わっていることがままあります。ところが濱野さんの文章は、電子メディアをコミュニケーションの環境として当たり前のように体験してきた世代の人が、誰にでも理解ができる文体を用いて、それらについて実際にはよく知らない人でも理解できるように配慮して書いたものという風に読むことができます。これは自分自身のことを客観的に眺めることができ、自覚的に方法論を選んで分析を行うこと、書くことに対して十分な訓練を積んできた人にしかできない芸当です。

私は梅田望夫さんではないので、こういうことを書いても誰も叩かないから安心して言いますが、このブログをお読み頂いている方全員にお勧めしたい本です。ちなみに、この本の前半、グーグルを扱った章で“神の視点”という梅田さんのグーグル観が批判的に紹介されていますが、これは私が読んだ梅田批判の中でもっとも説得的なものだと感じられました。

今まで自社の本をこのブログで扱うことに対しては躊躇があったのですが、この一冊を以て、自分に対してのその禁を破ることになります。その価値がある一冊だと思っています。


アーキテクチャの生態系

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