『日と月と刀』、読んでみっか

一昨日、梅田望夫さんとお話をしたときのことだ。
話の途中で梅田さんが「最近読んだ丸山健二の『日と月と刀』はすごいですよ」と藪から棒におっしゃった。その直前にはおそらく全然別の話をしていたはずなので、急なタイミングで出てきた丸山健二の名前に内心「!」となってしまった。迂闊にも僕は、その前日に梅田さんがブログにお書きになっていた『日と月と刀』を紹介する文章をそのときまだ目にしていなかったのだ。


■日と月と刀(丸山健二) (『My Life Between Silicon Valley and Japan』2008年7月27日)


というわけで梅田さんからこの書名が出てきたとき、僕はそれが丸山健二の最新刊のことだと分からずに、2秒ぐらいの間、僕が今まで読んだ丸山、読まないで通り過ぎた丸山のあれこれを頭の中から引っ張り出してみ、結局思い当たるものがないのを確かめて、「その本は存じ上げませんね」などと、いま思うと相当とんちんかんな受け答えをしてしまったのだった。

まったくドッグイヤーの時代にこの鈍さでは軽蔑の眼差しを向けられそうだが、昨日、おそまきながら梅田さんのエントリーを読み、そこからアマゾンに行ってみて、「よし、梅田さんにお勧めされたからには、覚悟を決めて読んでみっか」という気分になってきたところである。ということで、軽い話は何でも書いちゃうこのブログにふさわしい、このエントリーと化した次第。

今まで丸山健二を読んでいないわけではない。それどころか、20代の頃、同時代の小説家をもっとも熱心に読んでいた頃のアイドルの一人は丸山だったと言ってもよいくらいに熱中した。新刊が出ればお小遣いをはたいて買った。そんな忘れられない作家の一人だ。例の早稲田のお姉さんが出てくるまでは、『夏の流れ』で長く芥川賞最年少受賞作家と謳われ、『ときめきに死す』で多くのファンを獲得した当時の人気作家だから、同じように熱心に読んだ方は少なくないと思う。はてな界隈ではあまりいないかもしれないけどね。

その鋭利なナイフのような文章に、読者を不安に陥れずにはおれないまっすぐな倫理観に、ハードボイルドなプロットにしびれた。それに何よりも丸山健二その人が、20代の若者にとっては何とも言えず格好良かった。当時は組織暴力のヒトたちの代名詞だったサングラスをかけ、大型バイクにまたがり、文壇の存在を馬鹿にして安曇野に居を構える。生活のために売れる本を書くだけの作家をあざけり、自分が孤高の一匹狼であることを臆面もなく口にする。そのようにして自分自身を引き返せない絶壁の縁まで追い込んでおいて、これが今の自分だと読者に問うような作品をしっかりと出してくる。格好いい。自分もそんな風に生きることができたらと憧れに似た気持ちで小遣いをはたいた読者だった。古い作品は図書館で狩猟した。

そんな風で、いまWikipediaでたしかめてみたら80年代から92年発行の『千日の瑠璃』までは、出るたびにほとんどまめに読む読者だったが、『千日の瑠璃』の次の『見よ月が後を追う』を読んだときに、急に「もう丸山健二は読まなくてもいいかな」という気分になり、それ以降は逆にほとんど手にしていない。大食い選手権に出ていた大食漢が、ある瞬間に食傷感に襲われるということがあるのかないのか、僕には知るよしもないが、ともかくそんな感じだった。急に「もう付き合ってらんないかな」と言う気になった。それは単に一読者の勝手な転向であって、丸山健二はずっと丸山健二だったのは間違いない。しかし、この先、まだゆく場所があるのか、と当時の僕は思った。

Wikipediaを見て、その後もこんなに書いているとあらためて丸山健二の底力に目を瞠る。ぶれない。とことんやる。丸山健二は僕自身の弱さを映す鏡であるとも言える。翻って、梅田さんが丸山健二をお好きだとしたら、それは実に分かりやすい話のようにも思える。
丸山健二ってどんな作品を書くの?という肝心な部分を回避した腰砕けのエントリーだが、ともかく、そんなわけで『日と月と刀』を手にするとなれば、実に久しぶりの丸山健二体験になる。2500円の上下2巻本だよ。いったい何枚になるのかな。まさに丸山健二だね。


日と月と刀 上

日と月と刀 上

ときめきに死す (文春文庫)

ときめきに死す (文春文庫)