赤染晶子著『乙女の密告』

先月号の文藝春秋は恒例の芥川賞受賞作掲載号だったが、今回の受賞作、赤染晶子著『乙女の密告』はたいへん興味深かった。選評で作品に対する評価がまっぷたつに割れ、積極的支持と積極的不支持が鮮明に別れたのである。

作品は関西の外語女子大でドイツ語を勉強している女子学生を主人公に据える。この人が女子学生ばかりの学校のなかで『アンネの日記』を素材にドイツ語のスピーチを勉強しているというのが作品の世界である。スピーチ大会に向けて勉強する彼女らの間で、集団に波風を立てるような事件が起こり、主人公はそうした日常の小さな事件が積み重なるなかで、アンネ・フランクの人生に思いをめぐらしていくうちに、小説の時間はスピーチコンテストでクライマックスを迎える。

事件が起こると書いたが、この世界で起きる事件は些細なことでしかない。誰がクラスのどちらのグループに加担したか、誰が誰とお友達か、ドイツ人教授が大切にしていた人形を盗んだのは誰か、エトセトラ。些細と書いたが、そうした些細な事象が主人公の心のなかでは些細ではない世界として、この作品世界は設定されており、女子学生は、自称・他称でその存在を「乙女」という用語で呼ばれている。ドイツ人教授は「乙女のみなさん」などと学生たちを呼ぶのである。

起こる事件は「乙女」であることの正当性に関わるものとして重要性を持ち、小説の主人公や登場人物は、そのように認識をしているという世界が設定される。「乙女」というロマンチックな用語を持ち出すことで、「ユダヤ人」としての自分に向き合っていたアンネの世界と主人公のいる世界とが小説の中で交錯し、水彩画と油彩画を同時に見せられるような違和感を喚起させられる。そこから、個人と集団の問題、私とあなたとの間に存在する境界線という問題が浮かび上がる。そうした作りの、たいへん文学的な仕掛けに対する著者の意識が鮮明な作品である。

例えばクラシック音楽の世界で言うと、ポゴレリッチのような、普通とは違うことをする人が伝統で鳴らすコンクールに出る。彼は天才だと熱を込めて支持する審査員がいると思いきや、彼はそもそも分かっていないと突き放す審査員がいる。そうした話のひとつではあるのだが、今回の芥川賞作品は、ポゴレリッチのショパンのような対立軸が見えやすい例ではないのが特徴で、右か左かをはっきりと争っているかというとそうではない。かといって、同じ流儀のなかでよくできているか、いないのかを争うような事例でもない。審査員たちの中で、この作品を支持する人たちは、その構成の、表現の、洗練を語り、作品を支持しない人たちは、ユダヤ人虐殺の問題につながる『アンネの日記』を小説の素材として軽々に扱っている点を問題としており、それが十分に消化できるものになっていないと、大雑把に要約するとそういう対立にならない対立が、審査員の選評では読めるのである。

小説という表現手段が持つ幾重もの意味の層の存在をこの作品と選評とが照らし出したとい意味で、久しぶりに面白い芥川賞だった。僕自身も、この作品が好きかと自問して困ってしまったし、今も困っている。読了したときには、技巧に走りすぎていて、しかも私たちの置かれている場所とはまったく異なる場所で繰り広げられている劇を見るようで、こりゃだめだよと思ってしまったのだが、今は、これはありなんじゃないかと思い始めている。おそらく彼女が提起した「小説とは何か」という問題意識がアクチュアルで、はっとさせられるテーマだったということなのだろう。


乙女の密告

乙女の密告