村上春樹著『スプートニクの恋人』

僕は『風の歌を聴け』の新聞広告を鮮明に覚えている古い部類の村上春樹ファンで、普通に単行本で読める小説はだいたい読んでいるが、1999年に出された『スプートニクの恋人』だけは、ちょうど外国生活を切り上げて日本に戻る時期に刊行されたことも手伝って、ずっと手に触れないままにしていた。読んでいない本があるのを楽しんでいたと言ってもよいだろう。その本を初めて読んだ。

この時期に、こんなにハルキっぽい、昔からのファンが安心して読めるような小説を書いていたんだと、少し驚いた。『ねじまき鳥クロニクル』を出してからずっと後だ。だのに、それ以前のハルキ的登場人物が、肩の力を抜いたようにハルキ的会話を繰り出してくる。
たとえば。

「君の性欲のゆくえについては、なんとも言えない」とぼくは言った。「それはどこかの隅っこに隠れているだけかもしれない。遠くに旅に出て、帰ってくるのを忘れているのかもしれない。でも恋に落ちるというのはあくまで理不尽なものだよ。それはなにもないところから突然やってきて、君をとらえてしまうかもしれない。明日にでも」
すみれは空からぼくの顔に視線を戻した。「平原の竜巻のように?」
「そうとも言える」
彼女はしばらくのあいだ平原の竜巻のことを想像していた。
「ところで平原の竜巻って、実際に見たことある?」
「ない」とぼくは言った。武蔵野では(ありがたいこと、というべきだろう)なかなか本物の竜巻を目にすることはできない。


こうした、日常生活から遊離した、ポップでつくりものっぽい軽い会話やストーリー展開が次から次へと提示され、しかしそれが本当の自分の喪失、生きることの孤独という初期作品から一貫した真実の問いにつながっている。

まるで初期作品への先祖返りじゃないかと僕は思った。プロットはけっこうご都合主義的で、これは物語の中だから許されるような展開が随所で行われている。たとえば主人公が唐突に東京からギリシャに呼び出される部分は、現実には絶対にあり得ない、とてもとても嘘っぽい話だが、村上春樹の物語世界ではそれが許される。読者がそうした展開を期待している。村上さんのお気に入りのバーで、村上ファンが慈しんで読書をしている姿を想像してしまうような小説である。自分の中で大切にしていた何かが失われる悲しみ。その悲しみに立ち止まって耐えることで世界に対するメッセージを発信する登場人物たち。

初期読者が愛好した世界であると同時に、重要な小道具として扱われる「月」の存在は『1Q84』に一直線である。初期作品から『1Q84』への中継地のような作品。それが『スプートニクの恋人』だ。

最後にブロガー向けの話題をひとつ付け加えると、『ウェブ進化論』でしこたま語られた「こちら側」と「あちら側」というフレーズが、この本で一度ならず使われている。最初に出てくるのは、さきほど引用した会話の1ページ前で主人公はヒロインに向かって語る場面。主人公の口を借りて村上春樹の小説観がちらと開陳される箇所だ。

「小説の書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門をつくっても、それだけでは生きた立派な小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語はこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」

このように、「こちら側」と「あちら側」(ここでは「こっち側」と「あっち側」)は、小説の前半で気軽に語られる会話のなかに登場するが、ここで語られた内容は後半になって、主人公にとっての中核的な思考方法となって再現されることになる。失踪したヒロインの手記を読んで主人公が語る言葉がこうだ。

その両方の文書に共通しているモチーフは、明らかに「こちら側」と「あちら側」の関係だった。

梅田さんは村上ファンであると『私塾のすすめ』のなかのコラムで語っているので、そもそもの出典がこの小説である可能性が高いと初めて知った。


スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)