田口ランディ『モザイク』

奥付を見ると田口ランディの『モザイク』は2001年に出た小説だから、それから8年が経っている。遅れてきた読書の記録は、相手が古典的名作でもない限り、やはりどこか間の抜けていて、個人のブログぐらいでしか扱う媒体はないなと思ってしまう。この感情はどんな規範に支えられているのかなとふと考えるが、拙速に答えを出そうとすると何かを捏造してしまいそうな気がする。ただ、要は本なんて名作を読んでいればいいんじゃないかと思う自分は確実にいる。それと同時に今の世の中で評判になっている作品も、いろいろな意味で読んでおいて損はないという気持ちがあるというのも嘘ではない。いろいろな、というところに、くだらないブログのエントリーを書くときに材料になるというのも一つの理由ですと書いておこうか。おっといけない、自分のことに言及を始めると、あっという間に本物の嘘が混じり始める。

田口ランディは最初の長編小説である『コンセント』を、やはり遅れてきた読者として読んで、今までにないテイストの作品だなと思った。そこで何冊か立て続けに図書館で借りて読んだ時期があるが、オカルト的な素材や世界観が興味深く、どうして今の日本の物語作家で個性的な作品を書くのは女性ばかりなのだろうと考えたりもした。そして、どうでもよいような理屈を自分自身のために捏造したりした。

ついでにいうと、彼女が短編に描いていた沖縄の久高島の対岸に向かい合う彼の地の聖地で、いまは世界遺産に指定されている「斎場御嶽(セーファーウタキ) 」には、偶然読書の2年後ぐらいに訪れることがあり(このブログのやり始めの頃で、ちょっと書いたことがある)、 もしかしてあの島って田口ランディが書いていた場所かなと訪問後に気がついたなんてこともあった。僕には霊感の類が備わっていないようで、何かの気配を感じるだとか、いない人が見えるなんてことはまったくないのが少し残念。

『モザイク』は、『コンセント』以降の3部作の最後の作品で、人知を越えた世界を統一するコスモスが存在しており、その一部として生きる意味を与えられた私がいるという世界観の下に組み立てられた物語である。昔の僕だったら、まったく理解できなかったか、あからさまに馬鹿にしたかのどちらかだと思うのだが、いまは共感できる部分がある。田口さんのようにオカルト風にではないが、似たようなことをブログをやりながら感じている自分をこの1、2年ほど見続けていると言ってよい。そのことについては、僕自身は加齢の効果を意識しているのだが、意識が及ばない部分で、時代の空気が自分に作用しているということはあるのかもしれない。こういう感慨を得るのに同時代の文芸体験は手っ取り早い。

この作品のプロットは庄司薫の『ぼくの大好きな青髭』の焼き直しだ。作者はたぶん意識しているな、庄司薫をつかったな、と思いながら読んだ。『僕の大好きな青髭』は、庄司薫の描く主人公・薫くんがアポロ11号が月面着陸をする日、つまり科学技術の成果が一つの頂点を刻んだ日の新宿で、友人の個人的な危機に向かい合い、自分自身が人間として成長する瞬間を手にするお話だが、『モザイク』の舞台は渋谷で、そこで『青髭』同様、人捜しの半日が描かれる。薫くんの物語から30年を経て現れたパロディ的小説が、オカルト風というところに僕は何とも言えない気持ちを抱いた。この何とも言えないは、今のところうまく説明できない。

小説としては出来損ないである。主人公の若い女性、佐藤ミミは古武術を体得した美女という設定。本人の過去の不幸が契機で他人の心を読む、他人の心を聞く特別な能力も持っている。ただし、その能力は、心にかかえた大きな欠損の裏返しでもある。この主人公は一種の狂言回しとして作り出された主人公であり、彼女のつくりものっぽさが際立つ人物設定は、それ自体が物語のメッセージを説明するための道具だからだ。薫くんがクラスメートを助けに新宿に向かったように、佐藤ミミさんは14歳の男の子を助けるために渋谷を駆けまわり、同じように印象的な何人かの人物に遭遇し、新しい世界観に到達するのだが、その世界観の如何は別にして、こんな人工臭がつよい人物が登場する物語で読者は満足するのだろうか。大慌てで人捜ししているはずなのに、読者サービスで主人公がラブホテルでセックスしちゃうような場面が挿入される作品ってありなんだろうか。こういうリアリティのなさには萎える。

庄司薫の薫くん3部作を読んだことがない若い方がいたら、ぜひに、と勧めちゃいます。


モザイク (幻冬舎文庫)

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赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

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ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

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