ハルキさんの直感力

昨日の話の続きである。下川さんとの宴は、話がどこからどう流れたのか、もう定かではないのだけれど、村上春樹の話題になった。下川さんは、ハルキさんと実年齢では同じか、ひとつ違いかという関係で、学校も同じ。デビュー前の彼が都心で商っていた飲食店も、偶然のことだけれど知っているという。世代的には同世代、ということは、文学の読者としては、ハルキさんよりもひとつ上の世代ということになる。おそらく、ハルキファンという人種は、彼らより下の世代、僕らか、それより少しだけ上の世代から始まっているはずだ。

下川さんが行き倒れの人物を救助することができたのは読み書き能力の問題だという会話があり、そのことについて昨日書いたが、これは言い方を変えると直感力みたいなものを研ぎ澄ますという話でもある。

村上春樹のどこがいいのか、という話題に照らしていうと、ハルキさんの時代の空気に対する直感力。そういうことではないか。そこがこの人の魅力ではないかというのが、先日、わいわいの席で村上春樹の話題をふられてパンチをよけることが出来ず、棒立ちになっていた僕のやっとこさの回答。

村上春樹の大袈裟で独特な比喩について違和感を覚える、そのマンガチックなプロットが嘘くさくてついていけない、自己愛まるだしな主人公がはなにつくといった感覚が、70年代の終わり、80年代の初めの読者には普通にあったはず。たとえば三島由紀夫の文体こそがサイコーと言ってしまうと、もう村上春樹なんてお話にならない、みたいな。そういう表面的な部分ではなく、この人はなぜか読者である自分にとっての問題の所在を突き当てていると信じられる部分があるというのがハルキさんへの信頼感が発生する場所だった。人によっては、村上龍がそうだったかもしれず、中上健次がそうだったかもしれない。いまの作家では、若者にとって誰がそうした存在なのだろう。いまだに村上春樹なのだろうか。