「私は誰かとつながりたい」というだけのことなのか

私は子供の頃から、そのとき読み進めているお話の影響を受けやすいやつだった。影響というのは、筋書きや登場人物像に対してではなく、文体のほうの話。「かっこいい」とか思うと、すぐそれを真似して文章を書きたくなる。文章の楽しみというのは、最終的にはそこにある。広い意味でのレトリックにあるという世界観は、そのようにしていつの間にか身につくことになる。

そういう人間がtwitterを読んでいると、ブログの文体がtwitter風になるというのは自然と起こってしまうことのようだ。オチのない走り書きがふえるというのが、twitter風の意味するところで、そもそもブログの文章には「いま考えていることを、ともかくアップしてみる!」といったところがあるから、明らかにその延長線上、その蒸留水のような話ではある。だから、まるで不思議でもなんでもない。でも、これ自体が典型的にそうなのだけれど、こうした構成(観、あるいは力)という価値と無縁、少なくとも昔ながらの短文の美質みたいなことから無縁の文章を、こうして他人様に読んで頂く場所に置くことの意味はどこにあるのだろうか。

というようなことを考えてしまう。twitterを書いたり、読んだりしていて思うのは、人間誰かにつながっていたい、誰かとコミュニケーションをとりたいという欲求にはつよいものがあるのだなということで、twitterには実利の世界と直結した簡潔なお知らせ情報、知識の所在情報が超高速で行き交っていると同時に、それの何倍かの量の、「私はここにいるよ」情報が浮遊している。それを多くの人が目に止めあっている。

そんなtwitterの「飯食った」型エントリーを見ていると、人が文章を書いて、こういう公の場所に置きたくなる心情をストレートに表現されているように感じられ、そうした道具としてのtwitterの優秀さというか、あからさまな価値の表出に感心すると同時に、さまざまな動機に突き動かされてアップする自分のブログのエントリーのひとつひとつが、どれぐらいそうしたつながりたい欲求によって支えられているのか、少し振り返ってみたくなる。同時に、そういう個人の欲望とは関係なく、他人にとって価値のある文章(実利的に、情緒的に、エンターテイメントとしてといった違いは別にして)が、どれほどの数存在しているのかと疑問に思うことにもなる。

もう少し別のことにも意識は乱れる。ほんとに私は他者とつながりたいのか。結局、自分とつながりたいだけではないのか。と言ってしまうと、これは日記ですということになってしまう。やはり、それはさすがにちょっと違うだろうと思ったりする。