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村上春樹の初期作品には、と僕がここで言うのは、主に“100パーセントの恋愛小説”『ノルウェイの森』が出る以前の作品群を指してそう呼びたいのだが、若さ故の心の過剰と無力感をすくいとって癒してくれる何かがあった。当時の読者である僕にとって村上春樹の小説はそういうものとしてかけがえがなく、村上春樹が売れるということは、世の中には自分と似たような心象風景を抱いて過ごしている幾千もの人々が存在することの証明でもあった。村上自身がそうであるように、僕自身も含めてこれらの人々の多くが連帯といった行動様式を得意としていないとすると、そこから積極的な何かの社会的な運動が出てきたりすることはありえない。ビートジェネレーションのようには、という意味だ。それでも、村上春樹が読まれているという事実は、どこの誰だか分からない誰かに向かって密かな連帯の感情を抱く感覚を心の中に生じせしめたような気がする。

こうした感情を呼び起こす装置として村上さんの本が普遍的な何かを含んでいることは、先日このブログで取り上げた『A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか』を読んでもよく分かる。いまや日本の外に日本人の作家として最大の読者を確保している村上の読み手は、やはり基本的に若者であり、同書によれば当時の村上世代がそうであったように、政治的な挫折の季節を経験した・しつつある国々で圧倒的な支持を獲得しているという。実に、腑に落ちすぎるほど腑に落ちる話だ。

自分自身のことを語ると、『ノルウェイの森』以降、次第に村上春樹を離れた。それは「もう、面白くないからやーめた」という離れ方ではなくて、もっと自然がそのサイクルを刻むように起こった。20代の頃のように文芸誌に短編が載れば、すぐに買って読むといったがつがつとした読み方はしなくなっていたが、主要な著作は出れば必ず買ったし、それは未だに続いている。しかし、「何かが違う」という思いが読書の後に残るようになった。村上さんはでかい作品をどんどん書き始め、外国にも住むようになって、ますます書くものの広がりは大きくなり、一般的には「これを味わずば損でしょう」となっていった頃に「何か違う」は大きくなった。村上春樹がなくてもなんとか生きていけるようになってきたということかもしれない。

しかし、客観的な高みから見れば、村上作品はどんどんとよくなっていたのだろう。四十代後半を生きている僕が、仮に今初めて初期の村上作品を手渡されてとして、果たして感動や共感を覚えることができるかと考えてみると、やはり難しいものがあると思う。それらはサリンジャーなどと同じで本質的に若者の文学、若い男の子のための文学だと思うから。それに比べれば『海辺のカフカ』はずっと洗練されて、ずっと読んできた読者からみると幾分かは紋切り型の部分は認められるにせよ、大人の読書に耐えるものになっている。そういうことだろうとは思う。

ところが、『走ることについて語るときに僕の語ること』を読み始めたいま、かつて若さの持つ危うさを乗り切る支えの一つだった村上春樹が、これからは老化を生きる後半生の随伴者として再び自分にとっての大事な作家になるのではないかという思いがやってきた。村上春樹が人生にとって切実なことを見逃さない作家であるならば、そのことは何ら不思議ではないし、むしろそうであってしかるべきなのだ。迂闊にも僕はハルキさんをかなり見くびっていたということになる。