恩田陸著『蜜蜂と遠雷』


本を読む元気が出てきた。
難しい本、考えることを要求する本に立ち向かう体力はまだないので、よし、エンターテイメントを読もうと思った。そこで選んだ一冊が恩田陸著『蜜蜂と遠雷』である。今年の直木賞本屋大賞のダブル受賞作。ピアノコンクールを題材にした作品であるので、音楽好きにとってはそれだけで惹かれるものがあるし、著者が浜松のピアノコンクールを取材したと聞いて、ここ数年浜松を訪れる機会がある身としてもますます興味が湧く。時間を持て余す者の読書には悪くない。

作品は日本の地方都市で行われるピアノコンクールに挑戦する4人の若者と彼らの関係者、コンクール関係者(もっというと審査員)をめぐる群像劇である。それぞれに特徴的な過去と個性を持つ4人が、それぞれの動機を有してコンクールに参加し、審査員から評価され、自身を評価し、互いを知り合って刺激を受け、評価しあい、第一次予選から本線の高みを目指していく物語である。その過程を通じて主人公たちと読者は、音楽とは何か、自分の人生にとって音楽とは何かを考えることになる。

おおまかなプロットは以上のごとく極めてシンプルで、ミュージシャン同士のあからさまな対立やイジメが起こるわけではなく、主人公たちは読者を冷や冷やさせるお馬鹿な勘違いを起こすわけではなく、コンサートホール爆破のような突飛な事件が起こるわけではなく、ひたすらコンクールのリアルなありさまが丁寧な取材に基づく記述で徹頭徹尾描かれる。この点ではたいへん良質な小説である。

そうしたリアルな舞台で繰り広げられる人間関係は、一変して、ご都合主義的青春小説に仕立てられているところが面白い。小説中で展開される主人公たちの人間関係は、一種の理想主義、教養主義的で、4人は演奏を通じて互いを理解しあい、自分の演奏を高めるよすがとし、よしんば個人的にもお友達になってしまう。この辺りは、周りは皆が敵であるはずの本物のコンクールではありえない話だろう。この4人のうち、とくに3人については聴衆が注目する3人の天才という設定になっていて、凡人には当たり前の敵愾心や半目は、彼らの中では起こることがない。一人はパリの予選で突如現れた規格外の演奏をする弱冠16歳の日本人の天才、一人はコンクールの前から期待されているエリートであるところのアメリカの天才、もう一人は神童として12歳までコンサート活動をしていながら母親の死を契機に演奏家からのキャリアから遠ざかった天才という設定。

オリンポスの神々がコンクールを通じて交歓をするさまを描くようで、清々しさはあり読んでいて悪い気持ちはしない。しかし、まなじりを決してトップを目指している同士が参集するというコンクールのリアリティはどこかに行ってしまうし、そもそも、こんなコンクールに都合よく天才が何人も集まるのかよ、と呆れてしまう部分がエンターテイメントならではのご愛嬌だ。この種のエンターテイメントが好きな人は、こういうご愛嬌が大好きなのだし、そこに文句を言っては物語が動かないということなのだろう。星飛雄馬花形満と左門豊作がいなければ『巨人の星』は始まらない。

そこまではよいとして、この本の一番の違和感の素は、音楽や演奏そのものの表現だ。

これは引用して文章を読んでもらうに限る。まず第一次予選に主人公の一人、サラリーマンの身でありながら、一念発起でコンクールに応募した明石の演奏を奥さんの満智子が聴く場面。

満智子は目が開かれる思いがした。
それは満智子だけでなく、他の観客も同様だったようだ。やれやれ、やっと最後だという疲れた雰囲気だったのに、皆、覚醒して背を伸ばしたのを感じた。
明石の音は、違う。同じピアノなのに、さっきの人とはぜんぜん違う。
明快で、穏やかで、しっとりしている。活き活きとした表情がある。
やはり音楽というのは人間性なのだ


さらに同じ一次予選で、この本の中でもっとも型破りな演奏をする天才少年の風間塵が初めて演奏をした場面の中から。

どうしてこんな、天から音が降ってくるような印象を受けるんだ?
遠くからも近くからも、まるで勝手にピアノが鳴っているかのように、主旋律が次々と浮き上がってきて、本当に、複数の奏者が弾いているのをステレオサウンドで聴いているように思えてくる。
そう、音が尋常ではなく立体的なのだ、なぜこんなことができるのだ?


風間塵が2曲めにモーツァルトを弾くと。

胸がざわざわする。どきどきして、身体の奥が熱くなってくる。
まさにモーツァルトの、すこんと突き抜けた至上のメロディ。泥の中から純白の蕾を開いた大輪の蓮の花のごとく、なんのためらいも、疑いもない。降り注ぐ光を当然のごとく両手いっぱいに受け止めるのみ。


そして、次はバッハ。

平均律クラヴィーア。これはもう、彼の、風間塵の演奏としか言いようがない。これはこれでスタンダードになるのではないか。
訥々と、それでいてなんとも言えぬ歓びに溢れた音。誰の演奏にも似ていない。
素朴なのに官能的で、一種煽情的ですらある。


これはまだ一次予選の出来事である。この後に本書の音楽描写のクライマックスである第二次予選に突入すると、演奏のレベルはさらにものすごいことになっていき、ありきたりの美辞麗句はメガ盛りの様相を呈していく。その大喝采は、ここに出て来る主人公たち以上の演奏家が地球上にいるとは信じられなくなるほどである。

これは作者の明確な意図でそうしているのだと思うが、音楽を描写するのに一般的な音楽用語や、楽典、演奏史に基づく演奏様式論、実在する有名プレイヤーの演奏との比較など、専門的な知識を用いることを徹底的に排除している。そういうものに慣れていない一般的な読者をおもんばかっての方針だとは思うが、そうすると演奏の記述はかくのごとく、すごい、他とは違う、感動的な、今まで聞いたことがない、心に響くなどといった類の言葉をいかに洗練させて組み合わせるかの勝負にしかならず、積み上がるのは言葉ばかりである。

その割に、いったいこいつがどんな演奏をしているのか、本当はどんな音が鳴っているのか、思いを巡らしてもさっぱり実感できないころが困ってしまう。とくに物語の中でぶっ飛んだ演奏をして審査員の評価を二分している16歳の天才、風間塵君の演奏について、もう少しイメージを提示してほしいと思う。要は特別な技術と感性は持っていても、著しく様式感に欠ける演奏であるということなのだろうとは想像するが、さきほどのバッハやモーツァルトの演奏の場面を読んでも、批評家真っ二つみたいな変な演奏には思えないし、どう違和感があるのかが聴こえてこない。ここがこの小説のいちばん辛いところだ。

昭和40年代、一世を風靡した野球劇画、『巨人の星』は架空の人物たちをリアルタイムのセ・リーグに配置し、子供心には川上監督、王、長島とともに頑張る星飛雄馬は俄然リアルな存在に思えたものだ。しかし、振り返ってみると、見えないボールを投げて三振の山を築く星飛雄馬がなぜパーフェクトを達成しないのか、メジャーリーグカージナルスからやってきて「見えないスイング」であらゆるボールをやすやすとホームランにするオズマは何故ホームラン王にならず、王貞治の後塵を拝しているのか、謎な出来事満載なのである。
だけれども、読者の子供は、劇中のアナウンサーと解説者が星飛雄馬の投球に対して絶叫したり、息を呑んだり、額に脂汗を垂らすのを見て、その驚きに心を同期させたのだった。

蜜蜂と遠雷』も『巨人の星』みたいなもので、日本の音楽コンクールを舞台に同じことをやっていて、聴衆が常に美辞麗句でもって静かに絶叫していると思えば、本書の印象はほとんど言い尽くした感じがする。

でも、それをされても音楽は聴こえてこない。これは辛い。少なくとも音楽本としては楽しめない。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷