グールドをめぐる小さな感想

「私はクラシック音楽が好きです」だとか「J-POPが好きです」という類の言い方を僕なども普通にするが、しかし、ここには「便宜上そう申し上げます」という但し書きが本当はくっついている。このことはしばしば思うのだが、「クラシックが好き」というのはなんだかあり得るようであり得ない話の一つで、「クラシック音楽」というカテゴリーが世の中に存在する便宜性は認めるのにやぶさかではないとしても、その内実は多様性に満ちあふれている。グレゴリオ聖歌もいちおうクラシック音楽なら、バッハもそうだし、ショパンだって、ワーグナーだって、ストラビンスキーだって、ぜーんぶクラシック音楽だ。それら西洋音楽の数百年の歴史を全部をひっくるめて「好きだー」というのは、人の嗜好の幅を考えた場合、本来的にちょっと無理があるのではないかと思う。


だって、美空ひばりだって、郷ひろみだって、中島みゆきだって、同じ紅白歌合戦で歌った歌謡曲仲間といえばそりゃそうだが、この3人を同時にファンとして愛しちゃう人は多くないような気がする。控えめに言っても、気はする。だから、僕はクラシック大嫌いを公言してはばからないうちの子どもたちに「どう、これいいだろ? 別にクラシック全部を好きとか、嫌いとかいう必要ないんだよ。気に入った曲、気に入った演奏ってクラシックだのポップスだの関係なくあるでしょう」と会話をしたりする。そういう風に一度は言っておかないと、自分の子どもに「うちの親父はクラシック好きの変わり者」と思われるのは、やはりはなはだ気分がよろしくないのである。


そういう境界領域に立っている作曲家は、我が家のケースで言えばバッハとモーツァルトショパンなのである。これは、たまたまその三人だというだけで必然性はあまりないと思う。だが、演奏家で言えば、グールド。幅広い層に語りかけるメッセージを持っているという点で、グールドさんは群を抜いているように思われる。いや、これも我が家という狭い範囲での事例という以上のものではないのだが、そこから何かを敷衍したくなるような強烈なアピールをやはりグールドという天才は発散している。この人、20年以上前に死んじまっているんだよなあ、とあらためて不思議に思うほど新しい。エピゴーネン演奏家いっぱいなのに新しい。我が家で「受ける」のは息子が小学生の頃にさらったモーツァルト作曲のK.331のピアノソナタ。グールドが亀のお散歩のような速度で弾く、メッセージ性あらたかなK.332「トルコ行進曲付き」の一つ前に作曲された曲だが、その三楽章で聴かせる鼻歌付き快速演奏のエレクトリックな疾走感は、同類のイタリア協奏曲にもまして痺れる。しかし、英米の批評家の録音評などでは、けっこうあちらではその歴史的な役割を認めつつグールドを「グールドだから」と持ち上げるのではなく、批判的に評するケースに出会う。グールドのバッハはやはり違うという類の。いたずらに神格化しないという姿勢はグールドを論じ、グールドの意味を考えるに際しては実に正しいようにも思われる。


今日は、別なことを書くつもりだったのに、途中から筆がグールド方面に曲がってしまいました。