「アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」

東京国立近代美術館で開催されている「アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」を観た。数年前に亡くなったカルティエブレッソンの大規模な回顧展。そう言ってよい質と量の見応えのある写真展だ。


僕の写真家に対する知識は限られたものでしかないのだが、さすがにカルティエブレッソンぐらいになると、あちこちの出版物に掲載されている写真をどこかで目にしているから、あれも知っている、これも知っているという具合になる。その中途半端な知識故に、なじみの作品を目にするうれしさと初めての作品に出会うスリルとが交錯する展覧会というのは結構楽しい時間になる。ともかく、カルティエブレッソンに関して初めて僕の頭の中で一つの全体像が形作られた。時間が限られており、たった30分、会場をさっさと歩いただけだったのだけれど、一作、一作と壁に沿って流れて行くと感覚が作品群によって覚醒させられるのがはっきりと分かった。


僕は今日まで知らなかったのだが、カルティエブレッソンという人はかなり絵心があった人のようで、会場にはいくつものデッサンが並べられており、ブラックの作品を思い出す茶系統の色合いの油絵作品もあった。ダダイズムの影響を若い頃受けたという説明を読んで、スナップ写真でありながら、日常を半分飛び越えたような、深層心理に訴えるような作品に対する印象がどこから来るものなのかが初めて理解できた。ダダイズムなのだ。あるいはキュビズムシュールレアリスム、など意匠のめまぐるしい展開が絵画の歴史を爆発させた20世紀初頭の影響をこの人は直接に受けているのだ。あまりに分かりやすい話ではある。


1930年代の作品の新しさはまるで古びた印象がなく、我々アマチュア写真家はカルティエブレッソンエピゴーネンにもなりえていないという事実に驚愕する。笑われるのを覚悟で正直に言うと、僕は自分の撮る写真はカルティエブレッソンの追求した方向と似ているのかもしれないと思い、さすがに次の瞬間には、お前それってあまりに恥ずかしい感想なんじゃないのと自問する。あらためて作品を見ると、あながちその見解は完全に間違というわけでもなさそうな気がする。ただ、方向は同じでも、我々素人はカルティエブレッソンら一流が作った流れのなかで遊ばせていただいているだけなのだ。でも、それはそれでいい。なぜだか悪い気はしない。


それにしても印画紙に刻まれた粒子の荒れた様子が顕著で美しい白黒写真を見て、デジタル時代の我々がいつの間にかかなり独特な時代の美意識の中で生きていることを意識させられた。今の写真は600万画素より1000万画素、さらには1200万画素といった画素競争の中で、ひたすらメリハリの利いた画面を追求している。カルティエブレッソンのピントの甘さを前面に押し出した数多くの作品には、そうした価値観を一笑に付すような余裕がある。


会場の近代美術館を出て雨模様のお堀を見たら、ブレッソンみたいな一枚が撮りたくなった。我ながらしごく単純な奴である。


ともかくこれは素晴らしい展覧会。8月12日まで開催されているので、ぜひもう一度ゆっくりと観に行きたい。

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