植田正治の作品に思う

Emmausさんの植田正治をめぐる文章に触発された。

かつて植田正治 http://www.japro.com/ueda/は写真についてこう言っている。

美しく、めずらしく、貴重な被写体であっても、対象の価値によりかかりすぎたものに心をうつ美しさや感銘を得ることはない。うちに秘めた対象との言葉を大切にしたいと思う。私は脱複写、脱複写と念じながら撮り続ける。

でもどうしてもボクには植田正治が好きになれないのだ。人間の生の場というものが感じられないからだろうか。
「存在と描写と表現=脱複写」(『Emmaus'』2007年10月12日)


僕もEmmausさんと似たような思いを植田の写真に対して抱く者の一人かもしれない。すごい写真ではある。作品を見れば分かるとおり、計算尽くで、ひたすら理知的に撮る人だろうと想像していたら、本人は「脱複写」と念じながら撮っていたというではないか。あのフォルムにはモダンな感性ばかりではなく、その執念が焼き付いたのかと改めて思う。


しかし、好きか、嫌いかと問われれば、嫌いだと思ったことがないと同時に好きだと感じたことがないし、作品を見て心から感動をしたこともない。写せば何かが写ってしまう写真というテクノロジーへの批評的感性が生んだフォルムに彼のオリジナリティは存在していよう。だが、それは写真という範疇でのオリジナリティであって、造形芸術としての広い意味での新しさを獲得していたとは言えないのではないかというのが僕の感じ方の根幹にある。つまるところ、ダダイズムシュールレアリスムの絵画が追求していたものの二番煎じに見えてしまうのだ。その方向で突き抜けた部分があったか、先端にいたかと考えてみると中途半端の感が否めない。言い過ぎかも知れないが。


絵画ならば、もっと刺激的なコンポジションを、アーティストの際限のない妄想をかたちに定着することが可能性として与えられている。引き算の芸術である写真で同様の戦略・戦術を追求するのはかなり厳しい行いだというのが植田正治を見て思う感想である。カメラをさわれば写真は誰にでも撮れてしまう。その点を拒否したが故に成立した植田作品には、写真に“写ってしまう”人間の、風景の、人知を越えた奥深い何かをも拒否してしまった後の冷たさがある。