土田ヒロミのニッポン

東京都写真美術館で開催されていた『土田ヒロミのニッポン』を展覧会最終日に滑り込みで見ることができた。

土田ヒロミさんは、40年前から社会性の強い写真を撮ってきた方で、この展覧会では、新作を含めてその全貌を、かいつまんでということではあるにせよ、目にすることができた。今回は代表的ないくつかのシリーズを並べていき、それを時間軸に沿いながら目にしていくことによって、初めて見る僕にも土田ヒロミとは何者かがよく分かるようになっている。展覧会としては、とても行き届いていると思った。

土田さんは、僕が意識的にも、無意識の層でも「見たくない」と思う日本をど真正面から撮影しますといったタイプの作品を作る人。長い時間をかけて、日本のあちこちに出現する群衆を撮ったシリーズなど、まさにその典型である。繁華街、お花見、プール、公園、皇居前などなど、ありとあらゆる場所に生まれる群衆をフレームに収めた作品群を見ていると、何故こんなものを見せられなければならないのかと正直辛くなる。バブル絶頂期にあちこちで開催されたパーティ、そこに集う人々をひたすら追ったシリーズもやはりそう。写真に撮られ、残されたものを目にすると、バブル期という時代のひずみ度合いも、また日本人が西洋人もどきのパーティを開催するひずみ度合いも、作者の意図ともどもよく見える気になる。写真のこちら側で第三者となって接する僕は、彼らを高みから見下すような視線になっている。にもかかわらず、あそこに写っているのはあなたですよ、と言われているのが分かるだけに、ますます辛い。

広島の被爆者の遺品を一点、一点並べ、その品の由来をキャプションで紹介するシリーズにも、作者の社会性がくっきりと表現されている。辛いという点では、群衆を見せられるのと変わらないのである。そういう地点で作品を作ることをしてきたのが土田ヒロミという写真家だと言ってよいだろう。

展覧会のいちばん出口に近い場所に展示されていた作品『Aging』は、土田さんご本人が1986年から2006年までの20年間、毎日撮り続けたご自身の顔を証明書写真のサイズで一同に並べたもの。40代の兄ちゃん顔が60代の老人顔に変貌する20年の奇跡が捉えられている。僕はなんどもいったりきたりして、1986年の顔と2006年の顔の断絶と見えるものがどこでどのように発生しているのかを理解しようと、短い時間だが躍起になった。20年の変化はすぐに理解できる。そして、どうやら10年毎に見ても、一見して人の老化は見て取れる。それが、5年ごと、2年ごととなると、被写体の違いを受け止めることがだんだんできなくなる。あらためて、20年の時を隔てた土田さんの顔を見ていて、写っているのは変わらないものだと思い当たる……(作品は公式ホームページで見ることができます)。

土田作品は、そんな風に僕の理知に訴えようとする。写真の前にいると、どのように写っているのかは、二の次に思えてくる。そこがこの作家の本質に由来するところであると僕には感じられる。個人的な好き嫌いで言えば、美しい写真が大好きな単純な僕にとってこの種の写真はイマイチであるはずなのだが、また見たいと思わせるサムシングがどうも土田さんの作品にはある。展覧会の会場でも、その後にも、自然と自分自身について考えることを余儀なくさせられている。不思議写真だ。

■土田ヒロミのニッポン(東京都写真美術館 2007年12月15日〜2008年2月20日)
■土田ヒロミ公式ホームページ