ポール・ホフマン著『ウィーン 栄光・黄昏・亡命』

訳者のあとがきによると、本書の著者であるポール・ホフマン(1912-2008)はニューヨーク・タイムズに勤めたアメリカ人のジャーナリストで、数多くのノンフィクション作品を残している人物だが、そもそもの生まれはウィーン。本書は一人のジャーナリストが故郷の街を題材にして1988年に出版した単行本である。その本が刊行から16年を経て、2年前に翻訳書として日本で紹介された。上質の内容の本がこうして忘れ去られずに紹介されるのはたいへんありがたいことで、たまたま通りがかった三省堂の本店でこの本を見つけたことを含めて、今回は得した気分である。

本書をひとことで言い表せば、ハプスブルク帝国の首都の歴史にまつわる本であり、政治、音楽、絵画、文学、科学など森羅万象にわたり、西洋史に大きな足跡を残してきた中欧のメトロポールをめぐる壮大かつ華麗な“ゴシップ集”といったら言い過ぎだが、それに近い体裁と内容の本である。少なくとも最初はそう思った。オスマン帝国のトルコによるウィーン包囲から始まり、少なくとも途中までは昔話を楽しく聞く心もちの読書なのだが、巻の真ん中、時代が20世紀にかかり、最後の皇帝・フランツ・ヨーゼフが崩御し、政治体制が共和制に移行する前後から、淡々とした語り口はそのままに、政治の動きがあらゆる話題の中心へと移り、雰囲気は一変する。それ以降の本の調子は陰鬱な短調となって、反ユダヤ主義通奏低音の上に、過去の栄光から見放されたウィーンをめぐるキリスト教をベースとした保守主義社会主義、国会主義の複数の旋律が入り乱れ始める。貴族とブルジョアが支えた文化人たちの華麗なエピソードはそれらに呑まれて、ヒトラーによる独墺併合と延々と続く亡命の話題、第2次世界大戦の勃発、連合国による空爆、解放軍となったソ連軍によるレイプと略奪が語られる。最終章では、長大なエピローグのようにクルト・ワルトハイムが取り上げられる。戦後、ウー・タントを継いで国連事務総長となり、その後戦時中のナチとしての活動が発覚して世界的な反発を呼んだ中でオーストリア大統領になった人物に著者がテーマとして掲げるウィーンとウィーン人の裏と表の存在を象徴させ、本書はその前の時代のウィーンを象徴する存在だったシューベルトの未完成交響曲ブルックナーの第9交響曲のような静かなエンディングを迎える。

世界恐慌の引き金となった大公フランツ・フェルディナントの暗殺、それに続く世界恐慌あたりから本書の記述は濃厚さを増すのだが、1912年生まれの著者自身が政治的活動を行った当事者としてそこにいたという事実をあとがきで知るに及ぶと、この書きぶりの中立さ、私情私憤や過度な述懐をさしはさんでトーンを乱すことがない筆致のよどみのなさに書き手としての凄みがあるなと感心した。

本書の主人公はウィーンの街であり、そこに顔を出す歴史上の著名人、大衆はすべて主人公としての立場を与えられているので、ウィーンにまつわる著名人になにがしかの興味を持つ人なら充実した読書となること請け合い。翻訳の日本語は優れてこなれており、西洋史好き、音楽好き、絵画好き、建築好き、文学好きのいずれの読者にも充実した読書の時間が約束されている。でも、今このときに本書が日本で紹介される意味が強く感じられるのは、20世紀の政治的な混迷とその中で翻弄されたウィーンの知識人と大衆の悲劇が、テロと民族主義国家主義がグローバルな広がりで台頭する21世紀への警鐘へとなりえているところにある。これは、著者がおそらく意図した以上のことであり、訳者、出版社のファインプレーなのだが、おそらく一般的には地味なこの本が日本の広い読者に読まれるのは難しいと想像すると残念である。

残念といえば、翻訳について。日本語の読みやすさは素晴らしいが、単語の選択であららと思うところがあるのは、「ウィーン交響楽団」。ウィーンには世界的に知られた二つのオーケストラ、Wiener PhilharmonikerとWiener Symphoniker、もうひとつおまけに加えると、Tonkünstler-Orchesterがある。Wiener SymphonikerとTonkünstler-Orchesterは、どちらも20世紀の初めに設立された新興のオーケストラで、この本があちこちで話題にしているオーケストラは、内容からしてすべてWiener Philharmonikerであり、日本語の定訳は「ウィーンフィルハーモニー管弦楽団」。本書の中で繰り返されている「ウィーン交響楽団」はWiener Symphonikerの定訳なので明らかに誤訳と言わざるを得ない。ついでに言うと、本書で「ニューヨーク交響楽団」と書かれているオーケストラは「ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団が定訳(英語名称はNew York Philharmonic)。ドイツ語、英語でPhilharmonic Orchestra、Philharmonikerと呼ばれている団体はフィルハーモニー管弦楽団、Symphony Orchestra、Symphonikerと呼ばれているものは「交響楽団」と相場が決まっている。

それから、これは誤訳には当たらないが、ドイツの「バイエルン」を英語のBavariaそのままに「バヴァリア」と訳しているのはどうかと思う。同じくカフェを英語風に「コーヒーハウス」と訳しているのも少々腑に落ちない。訳者があとがきでHapsburgをハプスブルクと訳すか、ハープスブルクと訳すか、あるいはウィーンを現地の音にあわせてヴィーンとするかで迷ったと書いているので、そこにこだわるならば「バヴァリア」はないだろうと思う。現に、チューリッヒは英語読みのズーリックとはしていないわけだし。

それらはさておき、本書の詳しいあとがきは著者を知るのに大きな助けになる。また、14ページにわたって人名索引が準備されている点も手を抜いておらず、すばらしい。


ウィーン――栄光・黄昏・亡命

ウィーン――栄光・黄昏・亡命