日本のオーケストラは日本の音がする

10月に欧州公演に臨んだ東京交響楽団の、ドルトムントでの新聞評を見つけて紹介したら、常日頃の何倍ものアクセスがあった。何倍なんてものではない。このブログはたくさんに人に読んでもらいたいだとか、お客さんを増やしたいだとかいう動機をすでに忘れてしまったところで書いているので、お読みいただいている人の数は限られている。月に1度か2度書くと、その時には百人ぐらいの人が読みに来てくれる。別でやっている写真ブログの方はもう少し少なくておそらく50人から60人ぐらい。それぐらいの数の人たちがこのブログの読者の皆様なのだが、今回は2000人を超える人が数日でやってきた。誰か影響力のある人がどこかで話題にしたのだろうとすぐに思ったが、クラシック友達のKさんが音楽ライターの人がTwitterで紹介したのだと教えてくれた。

贔屓のオーケストラが本場ヨーロッパで好意的に評価されるのを聞きたいというファンは少なくないだろう。残念ながら、ドルトムントの新聞の評はけちょんけちょんだったが、「機械的で音楽がない」というのは、実際に欧州のオケを聴きなれた耳で日本のオケを聴いたドイツの音楽好きの反応としては、ある意味自然なものだと思う。

それは日本のオーケストラがあちらに行くたびに、ずっと投げかけられてきた言葉であり、今回の評者は日本のオーケストラを初めて聴いたので、正直に思いを口にしたらそうなったのだと思う。でも、日本のオーケストラを聴いてきた耳からすれば、今の東京交響楽団はかなりいけていて、機械的な演奏からそれなりに脱却しつつある日本のオケの見本なのかもしれないと思ったりする。しかし、それは、常日頃、数十年日本のオケを聴き続けた人間が知る事実であって、初めて聴いたドイツ人には通じるはずもない話だ。日本のオケは日本語を話すので、ドイツ語しか聴いたことがないドイツ人には分からない。たぶん、日本の文化の中で、日本語をしゃべる演奏家が演奏するオーケストラは、たとえ個人の演奏技術がさらに上達したとしても、ドイツのブラームスのようにはならないと最近は強く思うようになった。違うものとして楽しむしかない。

おそらく欧州でそれなりの評価を得られる団体はN響だけだろう。来年N響もロンドン、ベルリン、ウィーンなどを回るようだが、マーラー交響曲第6番とともに、今回東響が演奏したショスタコーヴィッチの交響曲第10番も持っていく。実演でN響に接して、ブロムシュテットのおじいさんなどとの演奏でとくにそういう思いを強くするが、大勢の音楽家が一つの楽器になって音楽を奏でる感覚は、どの日本のオーケストラにもましてN響は秀でている。機械的ではない演奏になる。どこのパートがどうで、などと素人が心配することなど忘れて音楽の移ろいに没入させてくれる点では、やはりN響以上の団体はなく、欧州でもそれなりの評価を得ることは間違いないだろう。

ただ、そのN響も日本のオーケストラの音がする。もうだいぶまえに20世紀最後の年にカーネギーホールN響を聴いたときの話を10年前にブログに書いたが、この時の感想はいまのN響にも同じようにあてはまる。もっとも、現在のN響は当時に比べてさらによい楽器になっているが、ネガティブな点に関しては変わるところがない。日本のオケは、今後進化しても欧州のオケの音はならないということに、ドルトムントの下手な演奏会評を読みながら、やっと今頃気がついた。何十年かオーケストラのコンサートを聴いてきて、それだけのことにやっと合点がいくという事実。


■N響の音(2006年9月21日)