ドルトムントでの東京交響楽団のコンサートに対する現地の新聞評

東京交響楽団ジョナサン・ノットに率いられて欧州5都市の演奏旅行を敢行した。そのフィナーレを飾るべくドイツのドルトムントで行われた演奏会(2016年10月27日)の評が、現地の新聞『ルール・ニュース(Ruhr Nachrichten)』のウェブ版に掲載されている。

http://www.ruhrnachrichten.de/leben-und-erleben/kultur-region/Konzerthaus-Dortmund-Orchester-aus-Tokyo-spielte-akkurat-aber-ohne-Emotionen;art1541,3142465


記事のタイトルは、「東京のオーケストラの演奏は正確。しかし、感情に欠ける」である。そもそも短い記事だが、この見出しで筆者である同紙の文化担当編集者、ユリア・ガースさんのメッセージは、そのほぼすべてが語られている。

この見出しに続くリード文をそのまま訳すとこう。「20世紀の半ばには鈴木メソッドがもてはやされた。とくに日本ではそうで、子供たちは、大集団で楽器を、とりわけヴァイオリンを学んだ。そして、練習に次ぐ、練習に明け暮れたのである。その頃の子供たちが今、オーケストラで演奏をしている。とくに日本ではそうだ。その結果がどのように聴こえるのかをドルトムント・コンサートホールに集った聴衆は聴いたのだった。」 

このくだりで、この評者が今の日本についてほとんど知識がないことが、クラシックファンの日本人読者にはよく分かるわけだが、「機械的な鈴木メソッドの結果」という少しずれた理解が、日本のオケに対する、いわば紋切り型といってもよいネガティブな印象の前置きになっているのである。そういう演奏に聴こえたというのは、疑いのない率直な感想だろう。このあとには「この夕べのコンサートは、本シーズンでもっとも精密だが、もっとも退屈な演奏会の候補である」とあり、「53歳の指揮者、ジョナサン・ノットは、この1000万都市のオーケストラの音楽監督になって2年だが、やるべき仕事はまだたくさんある」とも書かれている。
もう少し紹介してみる。

東京の音楽家たちは技術的には素晴らしく、その演奏は非常に清潔である。早いパッセージでもキズがない。しかし、オーケストラの響きは平板で、表面的。深みがほとんどない。それはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲においてもすでにそうだが、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番になると、コントラバスは8本もあるのにさらに足りない。

ソリストイザベル・ファウストは、音の小さなストラディバリウスである「眠れる森の美女」の繊細な響きに適応していたが、ベートーヴェンの作品に合っているとは言い難かった。激情的なショスタコーヴィチ交響曲もまた、深みはわずかしかなかった。しかめっ面をしたスターリンカリカチュアには痛みの感覚が欠けていた。終楽章においてショスタコーヴィチが彼のイニシャル「DSCH」を打ち込むとき、音楽は燃え上がらなければならない。このオーケストラでは、よく練習してはいるのは分かるが、作曲者の気持ちが分かっているようには聴こえない。

この二つ前のエントリーで、東響のブラームスではウィーンやドルトムントの聴衆には受け入れられないだろうと書いたが(そして、サントリーホールで、ドルトムントと同じプログラムを聴いてみて、繊細だが、自然さと重厚感に欠けるベートーヴェンの協奏曲も厳しいだろうとは思っていたが)、お国の作品ではないショスタコーヴィチならば、「それなりにやるじゃないか!」ぐらいのは評価はもらえるのではないかと、近年東響を贔屓している身としては期待もしていた。かなりのところ。ところが、これは見事にボロボロである。

同じ演奏を聴いて、「我々のやる音楽とはちょっと違うけれど、それなりにいいじゃないか」という評価があっても、まったくおかしくはないとは今でも思う。思いはするが、このブログでも繰り返し書いているように、東響の音は、例えばブルックナーの素晴らしい演奏をしても、音が堅く、本来要求されるどっしりとした重たさが出ない。「ルール・ニュース」の批評子は、そのあたりの違和感に我慢が出来なかったということなのだろう。