ノット指揮東京交響楽団のブラームス交響曲第1番

昨日、ジョナサン・ノットと東京交響楽団が欧州ツアーにこれから持っていく二つのプログラムの一つを聴いた(10月9日、タケミツホール)。曲目は、武満徹出世作で東響が委嘱をした「レクイエム」と、ドビュッシーの「海」、それにブラームスの「交響曲第1番」という多彩なものだった。

創立70周年記念の欧州ツアーについては、オーケストラのホームページに情報がある。
http://tokyosymphony.jp/pc/tour/europeanTour2016.html


それによると、東響が今回めぐるのは、ポーランドブロツワフクロアチアザグレブオーストリアのウィーン、オランダのロッテルダム、最後にドイツのドルトムントの5か国5都市。このうち、今日のプログラムはブロツワフザグレブロッテルダムで演奏される予定である。

このプログラムをウィーンとドルトムントに置かなかったのは賢明で、この日のトリを務めたブラームスが、この通りにウィーンで鳴ったとしたら、評価を得るのは難しいだろう。「好意的」な評価は期待できても、心底から感嘆を得るようなそれは。おそらくドルトムントでもそうだろう。ウィーンは音楽に関してはとても保守的な土地で、独墺系の曲目の演奏に対して許容できる範囲は限られている。ブラームスの生まれたドイツでもそうだ。だから、ポーランドクロアチア、オランダでトリのブラームスというのは理にかなっていると思うし、昨日の演奏を聴いて、そのことを実感した。

東響のパンフレットやホームページに載っているインタビュー記事などを読むと、ジョナサン・ノットは、相当いろいろと勉強し、理詰めで曲の描き方を決めるタイプの人のようである。本番を聴いてもそこはそうだろうなと感じるのは、私のような素人には聴き取るのが困難な独創性の部分でではなく、マーラーマーラーらしく、ブルックナーブルックナーらしく演奏されるスタイルへの適応という部分でである。この日も、武満は武満らしく、ドビュッシードビュッシーらしく、ブラームスブラームスらしく、聴く側の様式感をかき乱さない解釈が行われる。そのうえで細部にはノットならではの繊細さ、メリハリがきちんと乗ってくる。そういう演奏になるので、とんでもないものを聴かされない安心感と「今日は、どこをどうやるだろう」という楽しみとが常にセットで提供してもらえる。オーソドックスの範疇で勝ちを目指す正攻法の勝負を挑んでくる。よい指揮者だと思う。

しかし、そのノットが振ってもオーソドックスなブラームスにならない部分があるのは、東響の響きにその要素が乏しいからだ。東京交響楽団は本当によいオーケストラで、私はいま一番の贔屓にしている団体だが、ブラームスブルックナーを聴くと、音の厚みと余裕が不足していると感じられてしまう。それはそれで致し方ないものと割り切って聴く気分の時には文句もでないが、この日のように「これをドイツのお客さんに対して演奏するのか?」と考えてしまうと、たちまち違和感に襲われてしまったりする。

いや、日本のオケとしては第一級のレベルである。だけれども、N響だってそうだが、ドイツのオケの音とは根本的な質が異なる。そして、その音がないと、ブラームスブラームスになると感じられるかどうか、という部分で、独墺にわざわざ日本のオケがブラームスを持っていくのが適切なのかどうなのか。独墺だけじゃなくて、ザグレブロッテルダムだってそうだが、クラシックファンがいやというほど聴いている定番中の定番曲で勝負するのがいいのかという点について疑問は残る。ほんと、それをドイツの客に聴かせる意味はどこにあるのか。日本のオケが欧州に演奏旅行をしにいく目的がどこにあるのか。

「日本のオケもやるじゃないか!」という評価を取りに行きたい、それによってビジネス的にもよい効果を狙いたいというのであれば、やはり評価を得やすい選択肢で臨むべきで、ブラームスの第一交響曲というのはリスク満載である。「自分たちのブラームスの演奏がどんな評価を得られるか知りたい。現在の客観的な実力を測りたい」というのであれば、「やってみなはれ」というしかないけれど。

ウィーンでは、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲もやるが、名の知れたソリストが出演するし、そもそもメインはショスタコーヴィッチの交響曲第10番で、ご当地ものを避けた妥当な選択である。東京交響楽団の欧州ツアーの評価は、どうしてもこのショスタコーヴィッチ次第という感じになるだろう。