ノット指揮東京交響楽団のハイドン、モーツァルト

前日まで熱が出たり、胃痛が続いたりして、これはコンサートに行くのは無理かなと思っていたら、朝起きると予想に反して気分はすっきりとしており、初台のオペラシティまで出かけてきた。

ノット指揮東京交響楽団のこの日の出し物は、ハイドン交響曲第86番、チェロ協奏曲第1番、モーツァルト交響曲第39番という古典派の名曲集。タケミツホールの舞台裏の席に陣取ったのだけれど、すぐ下の舞台から立ち昇るオーケストラの音に包まれて、上等の時間を過ごすことができた。チェロ協奏曲のソロは、イェンス=ペーター・マインツ。この人はドイツ・カンマーフィルと入れたハイドンのチェロ協奏曲の録音がある。

ハイドンモーツァルトの音楽をライブで体験するのは、それだけで楽しい。楽しいというか、音楽が鳴っている最中に体の細胞がじんわりと活性化し続けるような、混じり気のない高揚感を覚える特別な時間になる。もちろん、そのためには演奏が平板では駄目。平凡な演奏では決して満足に達しないのが、聴き慣れた古典の名曲の気難しいところだろう。ノットと東響は、このハードルをやすやすと越えてくれるだろうと期待して買ったチケットに間違いはなかった。

私の場合、天上の音楽であるモーツァルトハイドンのイメージは、ベームカラヤン、その一世代下の指揮者の録音で形成されているので、アーノンクールやホグウッド風の古楽器的スタイルの流れが主流の今のモーツァルトに、必ずしもうまく乗っていけない部分があったりするのだが、ノットの場合、その辺りの様式に対する感性が非常にオーソドックス、かつ先進的、と言いたくなる絶妙の塩梅を聴かせてくれるのだ。ヴィヴラートは効かせないスタイルだが、リズムが溌溂として、自発性が高く、しかし20世紀のモーツァルトの伝統の上に乗って、音響以上に柔らかく自然な流れを作る。保守的リスナーにも、革新好きにも同時にアピールする音楽だと思った。イェンス=ペーター・マインツのチェロも構えが大きくて、素晴らしい演奏だった。

それにしても東響のメンバーは若い。自分より歳のいった演奏家は一人もいそうになかった。クラシック、ポピュラーに限らず、日本人の音楽センスは世代が下るほどに洗練されてきたと思う。

一方、舞台裏の席からオーケストラの向こうに広がる客席を見渡すと、今度は自分よりも若い人の数はかなり少なく見える。一般的に言って、ピアノの演奏会はもっと平均年齢が若いだろうし、オーケストラのコンサートでもマーラーではもう少し多くの層に広がる気がする。今頃モーツァルトハイドンだけしか演奏されないコンサートに来たがる層は、そういうことになってしまうのだろうか。そして、演奏家と楽団にとっては残弾だったろうことに、この日の客席は、ノットと東響の演奏会では今まで見たことがないほど空きが目立った。