マゼール指揮NHK交響楽団の『ニーベルングの指環』抜粋版

先日、マゼールの振るNHK交響楽団で、『ニーベルングの指環』のオーケストラ版を聴いた(10月19日・NHKホール)。

今回の『指輪』は、マゼールが指輪4部作のオーケストラパートを4部作の順番を守りながらツギハギして聴かせるというもの。このツギハギ編曲は作曲家でもあるマゼール自身が行っており、彼にはベルリン・フィルとの録音もあるという話を、ワーグナーにはことさら詳しい同行者のYさんに会場で教えてもらった。マゼールは60年代にベルリン・ドイツ・オペラでも『指輪』を振っているし、面白いものになるんじゃないだろうかという期待と、N響ワーグナーがさまになるかという興味とが交錯したのだが、さてどうだったか。

ツギハギ版は消化不良感の源泉だった。これは聴く前から想像していたことではあるけれど、『指輪』のオケ部分を小器用にまとめた演奏を聴いて、ほんとうにほんとうの満足を得るのは難しい。『指輪』というのは、日をまたぎ、普通の人から見ると呆れるほどの時間を費やして、あの神話的世界と映画音楽の祖先のような自意識過剰の音楽に浸る行為を指すのであるからして、『指輪』の要約版は、すでに『指輪』ではない。『指輪』に要約は存在しない。という風に言ってしまえば、そこで終わってしまう話なのだが、聴いてみて、あらためてそう思わざるをえないというのが率直な感想である。

当日配られた解説によると、『指輪』四部作の第一作『ラインの黄金』の導入部でちゃんと始まり、第四作の『神々の黄昏』の終局で終わること、四部作をきちんとオリジナルの順番に並べることを自ら課した約束事としてマゼールが抜粋を行ったのが、この日のつぎはぎ版である。その約束事からして、彼にとってのナルシズムが匂うわけだが、出てきた答えはどうなっているかと言えば、曲としてまとまりをもたせ、流れるようにするという目的を満たすために最後の『黄昏』のエンディング部分を長めにとり、そこを聴かせるつくり。前の三部は短めに処理されている。それだけならいざしらず、『黄昏』のエンディング感を強める、全部で一つの曲を聴いたように作用させるために、『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』からは、クライマックス部分をことさら巧妙に嫌うような抜粋が行われている。

これはよいことなのか、そうではないのか。人によって見解は分かれるところだろうが、たぶんあれはしっかりと組み込まれているだろうなと想像していた要素(の一部)が無視されるのは、私にとっては意外で、ちょっと損した気分になったのが正直なところだ。それで何が救われたのかが判然としないのが、損をした気分に追い打ちをかける。マゼールが「どうだ、うまくつなげてるだろう」と言いたいのは分からないでもないが、それってつまらない自己満足じゃないのかと疑いたくなる程度のつぎはぎだったとしたら、いっそのこと順番は無視して、よくCDで聴く管弦楽名曲集にしてしまう手だってあっただろうにという感想もよぎってしまうのである。あるいは、『指輪』抜粋ではなく、『神々の黄昏』抜粋版でもよかったのではないかとも。

マゼールは、いわゆる神童として世に出た人で、ストコフスキーに見出されて9歳でフィラデルフィア管を振ったとか、バイロイトに史上最年少で招かれたとか、カール・ベームの後のウィーン歌劇場音楽監督に就任したとか、常人離れした耳を持ち、クラシック音楽の最先端で人の羨むようなキャリアを重ねてきた人だし、ねちっこいメロディ処理や派手なオケの鳴らし方は個性的だし、ボスコフスキーの後のニューイヤーコンサートにバイオリンを手にして登場するようなショーマンシップにも欠けてないのに、「この人の演奏は聴きたい!」と思わせる何かが足りないと思ってしまうところがある。

ただ、この日の演奏を聴いて、ちょっと違った印象を受けた。巨大な編成に膨れ上がったN響を見事にドライブするさまは、それだけで聴きものだった。聴こえてくる音は、ヨーロッパのオケが生み出すワーグナーの歌とは異質な、いかにもN響の、四角四面な響きを伴った演奏とも言えるものだったが、自分自身で思っていた以上にその演奏を楽しんだ。それがどこから来たものかをつらつらと考えているのだが、どうもカラヤンクラシック音楽の世界を支配していた頃の、20世紀の四半世紀の思い出を聴くような気がしたから、というのが、目下の理由付けである。

うまく言えていないのだけれど、そんな演奏を聴いた。