お化けの真実

夏といえば付き物は海と山とスイカと花火と、そして怪談。
いつものように勤めのあとに立ち寄った書店で、文庫本コーナーで平台に置かれていた工藤美代子著『なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか』を見つけ、パラパラとめくるうちに買って読んでみようという心持ちになったのは、ちょっとした季節感が冷房の効いた丸善店内ですら働いたからかもしれない。

この文章の頭にそう書いてみたくなったのは、まさに季節感のなせる技だと言ってよいが、その時の気分を正直に思い起こしてみると、最近、重たい文芸作品を何作か立て続けに読んだ反動で、脂っこい料理のあとに口直しが欲しくなるように、ともかく軽い読み物を懐にしたかったのだ。その気分に平台の「お化け」の文字が反応してくれた。

子供の頃はお化けという言葉がほんとうに怖かった。あの怖さの感覚は、これから未来に向けて広がる人生には、ありとあらゆる場所に自分には感知できない、得体のしれない事象が満ち満ちているという実感の、変奏の一つに他ならなかったと、今になると思う。「得体のしれない」と書いてしまうとなにやらネガティブな色を帯びてしまうとすれば、もっとひらたく「未知の」と言い直してもよい。その、得体のしれない、未知の領域は、自分の周りに大きく広がっていた。ほの暗い森や林にもあれば、これからたどっていくはずの未来の時間もそこに含まれていた。そこは時に畏怖や恐怖がにじみ出てくる場所でもあれば、まだ見えない夢や憧れが隠れている場所でもあった。

だから、大人になり、得体のしれない、未知の時間や空間が自分の眼前に存在しているという感覚が次第に遠ざかるにつれ、そこにに住まっていたはずのお化けは、さてまだどこかにいるのやら、いないのやら。それはすでに怖い存在ではなく、懐かしい昔なじみのような響きを持つ事物の一つになってしまった。肉親や友人の中に、お化けになって会いに来てくれたら、どんなにうれしいかと懐かしむ人が増えてくる事態となると、お化けはますます怖い何かではなく、お化けが怖かった若い頃を懐かしい気持ちで振り返る自分を見つけることになる。少なくとも私はその程度にお化けに親しみ、お化けを信じていない擦れっ枯らしの大人である。

ノンフィクション作家の工藤美代子さんは、若い頃からお化けに好かれる体質の方で、その工藤さんのお化けや怪異な体験にまつわるエッセイを集めたのが本書である。夜中のゴミ箱がカサコソと音を立てたり、秒針が動かなくなったり、掛け軸がいつの間にか濡れていたり、奇妙な人がホテルの自室に佇んでいたり、工藤さんの身の回りでは実に様々なことが普通に起こる。そんな話が二重数編。ノンフィクション作家って、事実を素材にして物語を作る人たちだから、職業柄、ここに書いている内容は嘘じゃないはずだと考えると、工藤さんの体験はおっとびっくり、身の毛もよだつ類であるはずなのだが、著者本人はそういうことはあるものだという姿勢で一貫しており、多く場合、怖がる素振りを見せない。その筆使いのユーモラスな味がペーソスを呼び、お化けを軸に語られる人間模様が人生の機微を際立たせる。二重数編が編み上げるメッセージには明々白々なものがあるのだが、これから読む方のためにそれについては黙っておいた方がよいだろう。

さて、ところで。この本はノンフィクション?と私は問いたくなってしまった。著者が自身の体験に基づいて、著者にとっての事実を語っているのだから、それはそうだと言わければならない。でも、私にはお化けの存在なんて、これっぽっちも信じられない。そして、これらが作り話だったとしても、私にはまったく不都合はない。本当の話であることと、よく出来た怪談話であることの境目が、くたびれかけた大人にははっきりとは見えなくなってしまう。読者にとって重要なのは、それが語り手にとって語るべき人生の真実が表現されているか否かでしかない。あらゆるノンフィクションはフィクションだと言い直してもよい。その意味で、いま読んでいる作り話の傑作、村上春樹による『かわいい女』の新訳版であるレイモンド・チャンドラーの『リトル・シスター』は、真実のフィクションだ。村上さんのチャンドラーは、どれも素晴らしい。旧約版と比べると、それってそういうフレーズだったのね、という表現が満載で、翻訳の実に楽しめる。

こんな話で終わるつもりはなかったのだけれど、とりあえずそういうわけで。


なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか (中公文庫)

なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか (中公文庫)


リトル・シスター (ハヤカワ・ミステリ文庫)

リトル・シスター (ハヤカワ・ミステリ文庫)