ママ

工藤美代子著『なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか』で紹介されているエピソードの中に、レストランに出没する子供のお化けの話がある。

ある日、開店から4年が経ったレストランのオーナーである友人の女性からどこか思いつめたような、それでいて言いよどむような調子の電話が著者にかかってくる。聞いてみると、レストランのトイレで、「ママ」と呼ぶ子供の声が聞こえたというのだ。それを聞いて、著者は思わず「あら、あなた、それ聞いたの初めてなの?」と答えてしまう。

いやあ、私、あなたの店のトイレで、もう四、五回聞いたわよ。「ママ」って誰かがいうの。だってあの店ができたオープニングの日に行って、初めてトイレに入ったときドアを閉めて、便器によいしょって腰かけたとたんに「ママ」って、ささやく声がしたのよ。最初は換気扇がキッチンとでもつながっていて、誰かがあなたを呼ぶ声が流れてきたのかなとも思ったわ。でも、あのトイレって、客席やキッチンからずっと離れているから、おかしいなあって不思議で、そうしたら、その次に行ったときは声はしないけど、人の気配がするから、あっ、これはいるなって思ったの。

二人の会話は続き、シェフやマネージャーやアルバイトさんも、キッチンでコックさんの幽霊らしきものを見ていたのをこの女性オーナーは最近知ったといった状況が次第に明かされる。

ある日、ある時、一緒に何かを見たというのも怖いが、4年の間、レストランの従業員がそれぞれに異変に気が付きながらも、ある瞬間まで自分たちが働いている場所がお化け屋敷であることを確認しあうこともなく、ある日、ある時、「それってオ・バ・ケ?」と認識するというお話はなかなかにコワおもちろい。何よりも、お話に登場する著者自身が「そんなの知ってたんだけど」とおとぼけな筆致である点がいい。

私のようなお化けを見えない人間には、これは絶対ありえない話である。単純に誰かがどこかで何かを見ましたという話なら、それは気のせいでしょうで済ますことができる。しかし、複数人が「ママ」を異なる時間に聞いているというのなら、その場所で「ママ」が聞こえたのが客観的な事実であるか、あるいは当事者たちに別の何かの音を同じように「ママ」と取り違えたのか、はたまた著者が嘘つきであるか、実は著者はノンフィクション作家ではなく、フィクション作家であったのどれか以外に、私にはその「ママ」の理由が理解できない。

今日の話は、で?と訊かれても、これ以上のメッセージもこれ以下のメッセージもない。

私は自分自身に向かって言いたくなる。
「メッセージのない文章なんて書くなよ」
そうすると、もうひとりの自分は「たまにはいいじゃない」と答えて返す。「俺の今の気分を申し述べるとすれば、ひたすら合理的なだけの思考は人生を息苦しくする」
その横から、さらにもう一人の自分が小さく「ママ」と囁く。


なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか (中公文庫)

なぜノンフィクション作家はお化けが視えるのか (中公文庫)