青柳いづみこ著『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』

青柳いづみこの『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』は興味深い読書だった。本を手にとった際の期待を裏切るという点では失敗作と呼びたい出来だし、それが言い過ぎだとしても、これは演奏家論としてはせいぜい佳作というにとどまる程度の内容じゃないだろうか。もちろん、そこには著者の青柳いづみこさんの力量からすれば、という但し書きがはさまるのだけれど、『ピアニストが見たピアニスト』を読んだ読者としては、こういう本を想像してなかったもので、若干の肩透かしである。

何が物足りないと言って、当の演奏家に関する情報量があまりに限られている。これは著者と出版社には「お気の毒に」と言いたくなるような話なのだが、当のピアニストと合意して出版の企画が成立し、取材をし始めても情報が集まらないのだから仕方がない。何故かと言うと、ピアニストがたいへん扱いにくい人物で、本人からの情報が想像していたようには引き出せないのだ。

青柳さんは、あるきっかけからその存在を知った、実力はありながら本国フランスですら一部の専門家を除けばほとんど知られていないに等しいピアニストに入れあげ、その人物、アンリ・バルダのピアニストとしての肖像を一冊の本にまとめようとする。
ところが、このバルダという人物は、ある種の典型的な天才肌の演奏家タイプの人らしく、(この本にも出てくる)80年代に幻のピアニストとして日本でも話題になったニレジハージだとか、青柳さんも書いているリヒテルミケランジェリ、あるいは指揮者のカルロス・クライバーといった人たちと同じで、自分の演奏に対して過剰なプレッシャーを抱いてしまい、精神的に立ち往生してしまう質なのである。

バルダ氏は、その程度が尋常ではなく、レッスンで生徒に向かい合うとき、プライベートな空間で著者と二人だけといった場面では専門家の青柳さんを驚愕させる演奏をするのに、演奏会を開こうとすると途端にあれこれと考えすぎてしまい、関係者に偏屈一辺倒な対応をとってほとんど誰からも相手にされないような具合になってしまう。演奏の不出来な部分を針小棒大に悔み、コンサート評に一喜一憂し、失敗を極度に恐れる。自身に対する自信と不安との間で常に揺れ動いている気の弱い人物であることを我々は本書で嫌になるほど知ることになる。御自身がコンサートピアニストであり、吉田秀和賞を受賞するほどの文筆家である青柳さんがその才能に驚く人、パリ音楽院のピアノ科教授という肩書の人なのに。

本人への取材に対してもその態度は同様で、その日、その時々の感情のありようによってバルダの対応は猫の目のように変わる。否定され、傷つけられることが怖くて、拒絶したり、逃げまわるような対応をしてしまい、十分な情報提供がスムーズになされない。ところが、バルダという人は、その実は最大限の賛美、最大限の愛情が欲しくて仕方がないので、青柳が諦めたり、怒って突き放したりすると、逆に擦り寄ってくる。これは大変だったろうと気の毒にならないわけにはいかない。

結果はいなかるものか。企画は企画倒れに終わり、ピアニストはその肖像を霧の向こう側に垣間見せたに過ぎない。その結果、読者は生煮え(失礼!)の評伝と演奏家論、演奏論を含んだノンフィクション作品を提示されることになる。

バルダの演奏家しての特徴は、本の最初の2,3章でほとんど言い尽くされてしまっている。また、評伝的事実はあまりに限られており、本書の一部を成すに過ぎない。エジプト生まれのバルダがサイードと偶然の縁を持つことに目をつけて、この線も追求され、上手にストーリーラインに取り入れられて入るが、話の幹にはなりえていない。そこで著者と編集者は本格的な演奏家論を途中で諦め、この人物の人となりを明らかにすることで浮かび上がらせる読み物にするべく作戦を変更している。

その結果、我々読者が目にするのは、「プロローグ 2012年7月12日」に始まって「I 2004年3月」から「エピローグ 2012年7月13日」まで11の章とプロローグ、エピローグで構成されるピアニストと著者とのコミュニケーションの記録であるところの『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』だ。そして、これは企画倒れで瑕疵はあるにせよ、不思議に味わいを持った作品となっている。

著者はエピローグで浜離宮ホールの演奏会に駆けつけ、第一章でフランスの田舎町にコンサートを聞きに出かけ、第二章で神戸での講習会に通訳として参加し、ウィーン国立歌劇場までおしかけ、その他、可能なかぎりの時空でバルダを体験する。そして、それは二人の人物が音楽を媒介としてつながり、理解し合い、ふとしたきっかけで対立・反目し、しかし互いを認め合うといった、実に人間らしい交流の記録となっている。そうしたものとしてこの作品を読む限り、本作は文芸作品の域に足を踏み入れていると言っていい。ただ、読者がスリリングに体験するのは、ピアニストに向き合う著者の心の動きであって、バルダのそれではない。著者の筆力と十年の歳月と出版社の努力とが掛け合わされて、一人のピアニストを世に問うことに執念を燃やすピアニスト兼文筆家の情熱が一冊の本の形に昇華した結果がそれだという点で、バルダの内面の謎にはたどりついていないという意味で、本書は読み手によってかなり異なった評価を得ることになると思う。

タイトルに使われた「神秘のピアニスト」というフレーズはフランスのメディアがバルダを評した記事に使われた文言のようだが、読了後、『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』というタイトルを見ると、僕などはやめたほうが良かったんじゃないか、「神秘の」を表題に使おうという企画のどこかの時点で登場した評伝作品用アイデアに引きずられてしまって失敗したんじゃないかと感じてしまう。『神秘のピアニスト、アンリ・バルダと私』、これもタイトルとしては不細工かもしれないが、そんな方向に模索すべき本来の書名があったような気がする。あと、表紙の装丁。なんと神秘さのかけらもない平凡なコンサート写真をもってきたことか。

どんな演奏をするピアニストなのだろう。本書を読むと、否応なく「聴いてみたい!」と思わざるをえないところがさすが青柳さんの筆の力だが、そこまで言ってしまったうえで、果たしてほんとうに一冊の書籍に値するピアニストなのか、まだ懐疑の念から自由になれないところがある。やはり「神秘のピアニスト」なのかもしれない。


アンリ・バルダ 神秘のピアニスト

アンリ・バルダ 神秘のピアニスト