岡田暁生著『音楽の聴き方』

京都大学の先生で音楽評論家である岡田暁生さんによる中公新書の一冊である。
セール用に巻かれた本書の派手な黄色の帯には「「お好きなように」と言われてもお困りのあなたに」と明朝体で大書されている。しかし、読んでみると、実際にこの本が読者として選んでいるのは、むしろ一月と空けず音楽会に通ったり、自宅には音楽CDのコレクションがしこたま揃っていたりという人たちではないかと思う。そういう人に向けて、音楽、この本ではその対象はいわゆるクラシック音楽だが、それらはどんな風に聴くのがよい聴き方なのだろう、音楽を評価するってどういうことなのだろう、という至極ストレートな問を突きつけてくる本である。

善し悪しはリスナーの生理的な反応であり、それは個人によって異なる。相性が存在する。つまり、誰もがよいといい、誰もが悪いという演奏はごくわずかしか存在していない。そして、その個人の評価に影響を及ぼすのが「内なる図書館」、つまり過去の視聴体験であり、それは本来的にきわめて個人的である。これがこの本における第一の公理のようなものだ。

同時に演奏に対する評価は社会が共有する文化や規範によって左右されるものでもあるという点に注意を喚起する。ジャズの大家の演奏がクラシックの人には理解されないし、ドイツ人のリヒャルト・シュトラウスには、ドビュッシーのフランスのエスプリはまったく理解不能であったといった例を挙げながら、善し悪しの判断にはリスナーが所属している準拠集団の文化や規範、状況が常に影響を及ぼすことを指摘する。これが著者の繰り出す第二の公理である。

第一章で提示されたこれら二つの公理(音楽の本なのだから、むしろ二つの主題というべきだろうか)を携えながら、第二章では、音楽体験を「語る」ことの意義が、現在に至るまで影響を及ぼし続けていると著者がみるドイツ・ロマン派の音楽観、それが生じてきた歴史的文脈が解説される。以降、さまざまな素材を投げかけながら、著者は言葉を持ってする視聴の重要さ、「聴く型」を身につけることの必要性を説いていく。

クラシックファンには岡田さんの主張を自明のものとして聴いている人と、こういうタイプの論に無自覚な人とがいるように感じられる。前者にとって、この本はいうまでもないことを語っているように感じられるかもしれず、後者には「?」で受け止められる恐れがある。ある種の要約を行うのは容易な内容だが、著者は、アドルノから村上春樹に至るさまざまな言葉、音楽を語ってきた言葉を引用しながらその論を展開しており、その細部を味わいながら「なるほど」と説得されたり、「いや、そうは思わない」と反対意見を組み立てみたり、といった読み方をするのが楽しい本なので、音楽好きの方は楽しめると思う。逆に、ストラビンスキーとか、チェリビダッケカルロス・クライバーといった固有名詞にまったく知見がない方には、そうした事例でつまづく可能性があるという意味で、平易な文章であるにもかかわらず読みにくい本かもしれない。

著者の論の行き着くところは、それほど明るいものではないというのが僕の感想だ。というのは、日本人がいわゆるクラシック音楽を聴く際に、未来永劫かかえなければならない業の存在を岡田さんは明記したと言えなくもないからである。その意味では、著者は軽いガイドを書いているようでいて、その実恐ろしいところをついている。

日本人の語る善し悪しは、ウィーン人の批評家がウィーン市民に対して語る善し悪しのような、社会のもつ歴史的な文脈につながった暗黙の了解はない故に、どうしてもきわめて個人的な好き嫌いを語っているか、ある種の流派を社会的な同意や反目とは別のところで支持しているだけということになってしまう。

小澤征爾が、昔からインタビューで「東洋人である自分たちがどこまでできるかを試したい」と語っているが、東洋人や日本人といった括りは最後まで意味をなさない、意味をなすことはできないのではないかと本書を読みながらぼんやりと考えてしまう。つまりクラシック音楽を語ることは、どれほどあがいても、ある種のサークルに向かって語りかける「おたく」的文化にとどまらざるをえず、それが普遍的な共通認識の土壌を広げることにはつながらない恐れが強いということである。

同時に著者が引用している、フルトヴェングラーを賛美し、トスカニーニを批判するアドルノの文章にとても気持ちの悪い危険な匂いを嗅いでしまう。

クラシック音楽が好きで、読書が好きという方に一読をお勧めし、あれこれと議論をしてみたくなるような本だ。


音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)