コンサートの楽しみについて

「コンサートの」とタイトルを付けてはみたものの、最近はプロの演奏を聴きに出かけるのは年に2,3度程度。あとは友人達が関係しているアマチュアの団体の催し物を3度か4度拝聴するのがせいぜい。身も蓋もない話だが、子供らの学費も払わねばならないし、お小遣いには限りがあるし、本だって少しは買いたいし、お酒は毎週飲みたいし、カメラまで買ってしまったし、となるとコンサートは優先順位の下の方に置かれてしまう。『三上のブログ』で、三上さんがコンサートや美術館のような場所が苦手だとお書きになっているのを読んで、そこで書かれているように、それがへんだとはまるで思わないけれど、へぇ自分とは逆だなあと面白くは思った。

■作品とは何か(『三上のブログ』2004年8月26日』)

ついでに書いておくけれど、人間なくて七癖、誰がどのようなこだわりを持っていても、そのこだわりがプラスの方向へのものだったとしても、その反対方向へのそれだったとしても、そのことに対して一定の尊重の気持ちを持つことは礼儀である。


さて、自分にとって美術館やコンサートホールの空間は、十代の頃から二十代にかけてはとくにそうだったと思い出すのだが、日常にまつわる屈託をしばし忘れることを可能とする特別な場所だった。だから、そこでは常に日常を忘れるような特別なことが起こってほしいと大きな期待を抱いて出かけたものだ。ベームカラヤンオーマンディヨッフムショルティハイティンクなど、その頃に聴いた大物指揮者が指揮するオーケストラ・コンサートには、今考えると当時意識していた以上のサムシングがあったように感じられる。いまはもう、その頃と同じような気持ちでコンサートに行くことはない。おおよそそこで何が起こることになるのか、想像ができてしまうのだ。本当は想像以上の何かが起こる可能性はあるのかもしれないが、「想像できてしまうなあ」という感情が湧き起こって、窮屈な椅子にじっと座っているのも嫌だなという気持ちの方が勝ってしまう。おもちゃとじゃれあうのをやめた年食った猫みたいなものだ。


とにもかくにも、コンサートに行くからには日常を忘れる何かを期待する気持ちを携えてそこに向かう。これからもそんな機会に巡り合いたいと思う。しかし、ときには期待とは裏腹に、まるで日常に引き戻されるような目に遭うことだってある。かつてこんなことがあった。


場所は御茶ノ水室内楽専用ホール。ソリストが数人集まる室内楽アンサンブルを聴きに行ったときのこと。チェリストは売り出し中の若手男性奏者。ピアノはこれも一時レコード会社が盛んに売り出そうとしていた東洋系アメリカ人の女性奏者だった。バイオリンが入っていたはずだが、誰だったか思い出せない。もしかしたら、今井信子ビオラを弾いていたかも知れない。ともかく、そんな編成の楽曲を私はピアニストをすぐ斜め後ろから見下ろすような2階席で聴いていた。


ごく小さな異変に気がついたのは、途中休憩に入る直前の曲目だった。譜めくりの女性がどうやら譜面について行けないのだ。ピアニストはソロで演奏するリサイタルではほぼ例外なく暗譜で弾くが、室内楽の場合、とくにこのときのようにソロピアニストがたまにを弾くなどという場合、まず例外なく譜面を見ながらの演奏になる。そこで横に譜めくりの係がつき、演奏者の合図に合わせて1枚、また1枚と楽譜をめくっていく。このときもピアニストは頷くようにして楽譜をめくるタイミングを知らせるのだが、このときの女性は慣れていないのか、一テンポどうしても動作が遅れてしまう。最初はあれ、と思う程度だったが、ピアニストの頷き方はどんどん大きくなるのにやはり女性はうまくできない。曲の終盤にさしかかると、業を煮やしたという感じのピアニストは女性を突き飛ばすようにして自分で譜面をめくり始めた。テンポの速い楽曲で両手を神業のように移動させながら、同時に譜めくりを自分でするのだからたいへんだ。譜面を乱暴にめくる所作が入るたびになんだか心が締め付けられるような気がした。


演奏が終わり、拍手に促されるようにお辞儀を繰り返すピアニストの顔に当然のように笑顔はなかった。まるで鬼のような怖い顔で、ステージを降りる際にチェリストに向かって不満をぶつけている。声は聞こえないから、もしかしたら「ねえ、今晩このあとどこでご飯食べる?」と言っていたのかも知れないが、それはないだろう、きっと。チェリストはいかにも「まあまあ、気持ちは分かるけど落ち着いて」という身振り口ぶりで、返答をしながら舞台の袖に向かっていた。休憩後、再開された演奏会では最初から譜めくりの担当者が消えていた。


つかの間の時間を日常の外で過ごしたくて出かけたコンサートでこんなことに出会うと、実に味気ない気持ちになってしまう。嫌なコンサートだったなと後味の悪い思いで会場を後にした。その女性ピアニストについては、その後とんと名前を聞かなくなった。少なくとも有名レーベルからCDが出るといった話を聞かなくなった。未だに大きな舞台で弾いているのだろうか。


このときの女性ピアニストの所作には大いに不快感を感じたが、譜めくりが下手でフラストレーションがたまるのは案外あることのようで、それから数年後にニューヨークで聴いたコンサートでも似たような場面があった。フルートの名手、ジェームス・ゴールウェイのリサイタルで、伴奏はゴールウェイのリサイタルの相方をいつも務めているフィリップ・モルというピアニスト。


このときの譜めくりは50歳をとうに過ぎた年格好の、背の高いおとなしそうな雰囲気の白人女性だったが、やはりうまく対応できずにモルがいらついている。モルは東京のコンサートの女性ピアニストのように感情的にささくれ立ったような反応はしなかったものの、困ったという表情はありあり。結局、この女性も後半は出てこず、別の人が登場することになった。


その後半の冒頭、舞台の上でゴールウェイが急におしゃべりをはじめた。皆がびっくりしてそれに聞き入る。

「彼女は、本当はすごく、すごくいい譜めくりなんです。でもね、大変なことにコンサートの始まる前に旦那さんが車を運転していて事故を起こしちゃいましてねえ。いや、大した事故じゃなかったんですけどね。彼女はとてもいい人だから、その連絡を聞いて、気になって気になって仕方がない。それで今日は調子が悪くなっちゃって…」


観客はゴールウェイの冗談に明るい笑い声で応じ、会場から変なしこりは跡形もなく消えてしまった。これらは極端な例だけれど、完成された演奏はむしろ録音で聞くに限る。生演奏の楽しみは瑕疵にあると言ったら言い過ぎだが、感情のドラマを作るのは完成された輝きだけではない。すべてひっくるめてコンサートはそれが作品。それらを堪能するのがコンサートの楽しみだと思う。