まじめな『モーツァルトの脳』

モーツァルトの脳』はモーツァルトに関するいくつもの逸話を使い、それらを素材に音楽を司る脳の機能を分析するのだが、本書は大方が期待するようにモーツァルトの天才には肉薄しない。あるいは予想とはかなり異なる方法でモーツァルトの天才に近づくと言ったほうがよいだろうか。

すでに紹介したように、本書ではモーツァルトが九声、演奏時間十数分の「ミゼレーレ」を一度聴いただけで記憶してしまい、後日それを完全に楽譜に起こしてしまったという逸話をもとに「音楽と記憶」について脳科学の薀蓄を紹介する。同じように音程の話が、読譜の話が、音色についての知覚の話が続くわけだが、それらの知識に触れて読者が理解するのは、モーツァルトの脳は、そうした音楽を理解する機能が並みはずれていたということだ。簡単にいえば、である。

桁違いの記憶力があると何が起こるのか。モーツァルトがあっという間に曲を作ってしまう話はしばしば聞かされるが、つまりそれは彼が楽譜を書くことと曲を作ることを同時にやっていたわけではないということだ。プラハを訪れたモーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』の序曲を公演の二日前に一晩で描き上げたというよく知られた逸話について言えば、彼はその一晩で楽曲の創造をやってのけたのではなく、馬車に揺られてウィーンからプラハに向かう間に、かの名曲は徐々に作られていた。それはモーツァルトの脳に刻み込まれ、推敲され、ついには彼の中で完成されていたのであって、ただそれを書き起こすのに一晩を費やしたというに過ぎないということになるのである。

先日、NHK・BSで自作の曲を録音中の辻井伸行さんを北野武が尋ねるという番組を放送していた。それを観ていて、『モーツァルトの脳』が語っていたモーツァルトの尋常ならざる音楽記憶の話が自然と思い起こされた。たけしがグチャグチャとデタラメに鍵盤を叩いたその音を盲目のピアニストである辻井さんはすぐさま再現してしまう。すぐさまと書いたが、そこにはわずかな時間的な間合いがあって、それを観ていると、どうやらその間に辻井さんは一度自分の頭の中でいったん音符を組み立てているように思えるのである。そうやって、十数分、初めての音符を脳髄に書きこむことが出来れば、「『ミゼレーレ』の奇跡」となるのだなと妙に納得をしてしまった。

では、それが十数分出来れば、モーツァルトが出来上がるか。もちろん、そうではないだろう。高機能の音楽脳は、子供の頃のモーツァルトがあちこちの王侯貴族の前で行ったような、一種のサーカス芸人を可能にはするとしても、あぁこれはモーツァルトと、世界がおもわずため息をつくような、他に比較するもののないオリジナリティの懐胎をこれっぽっちも説明してはくれない。

かつて『疾走するモーツァルト』の中で、高橋英夫は、一点の曇もない高い技術によって実現できた完成品に「謎」が宿るのがレオナルド・ダ・ヴィンチモーツァルトだと書いた。その「謎」をこそ天才の証であるとすれば、『モーツァルトの脳』は、脳科学は結局モーツァルトにはまるで接近することはないのだという感慨を与えるという意味で、彼の天才をくっきりと描いていると言えないこともない。

数年前に『疾走するモーツァルト』を読み、その「自作自演のフェアプレイ」風の文学的な論述に辟易とした先で「文学の手法はモーツァルトには近づかない」と思ったはずなのだが、まるで違った角度からモーツァルトに近づこうとした自然科学の書籍から、まったく同じ感慨が出てくるとは予想だにしていなかった。


モーツァルトの脳

モーツァルトの脳