お笑い『モーツァルトの脳』

丸善本店の3階、エスカレーターに導かれて登りついたフロアの右手に店舗お勧めの人文系書籍が並ぶ棚がある。そこに並べられている書籍を確かめるのは、この本屋さんを訪れる楽しみ。とくにここしばらくは、その棚の右手隅に音楽関係の書籍がいくつも並べられており、来るたびに気になって仕方がない。衝動買いの気分に自ら「まった」をかけてはいるものの、まずは一冊という気分には勝てず、ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』(作品社)を購入した。その真横に並べられているのが、ルース・タトロー著『バッハの暗号 数と創造の秘密』(青土社)で、これは前者に輪をかけて面白そうな雰囲気を発散させているが、パラパラとめくってみると、かなり手ごわそうな本格的論文の気配が充満している。そこで、ちょっと恐れをなし、『モーツァルト』購入と相成る次第。モーツァルトの肖像を中央に据えたカバーがきれいで、購買欲をそそられる。

原著者のルシュヴァリエさんはフランス神経心理学の学会長を努めたという脳医学の専門家。と同時に幼少のみぎりよりオルガンをたしなみ、教会のオルガニストを務め、コンサートまで開いてしまう両刀使いの人物である。そんなバックグラウンドを持つ人が、神経心理学のテーマとしての「音楽と脳」というお題をモーツァルトに結びつけて解説しようというのだから、これは音楽好きにとって面白くない訳がないだろうと思って投資した2400円。しかし、美味しそうな題材と著者の履歴が揃ったからといって、よだれを流しながら食べ続けるような料理になるとは限らない。今回はそういう例のひとつだった。

本書は、モーツァルトの神童ぶりを示す好例として有名な『ミゼレーレ』の逸話を出発点に神童の脳に何が起こっていたのかを検討する。『ミゼレーレ』はミケランジェロの天井画で有名なシスティーナ礼拝堂に伝わっていた門外不出の曲で、つまりその楽譜は一般に持ち出すことは許されていない代物だそうだが、演奏時間十数分、九声のその曲を十代前半のモーツァルトは一聴しただけですべて覚えてしまい、後日楽譜に書き写してしまったというのだ。

この驚異の暗譜を実現するために、モーツァルトの脳はどういうものである必要があるのか。そもそも記憶とは脳の中でどのようなメカニズムでなされるのか、という風に認知心理学神経心理学に基づく脳の機能についての研究成果が披瀝され、モーツァルトが天才であるための彼の脳の機能的特性が推論される。同じように、モーツァルトの伝記的事実と現代の研究とを行きつ戻りつしつつ、音感、読譜、作曲、音色、音楽知覚の発達といったテーマが7つの章の中で展開される。

簡単に言うとそういう構成によって成り立つ本で、こう書いてみるかぎりたいへん魅力的な試みであることに違いはないのだけれど、読後感はいま述べたようには単純ではない。脳科学者である著者は、実に気軽に専門用語、あるいはそれに類した表現を繰り出してくる。その語り口は、茂木健一郎さんや池谷裕二さんの一般向け読み物のように素人に対するサービス精神に満ちているとは言えない。例えば、こんなふう。

さらに大脳のほかの部位が介在する。外前頭皮質(図4)は中央実行系を構成する神経回路網の中枢だろうし、通常は記憶症候群で重きをなす短期記憶の中枢だろう。

パドリー(二〇〇〇)はエピソードバッファーを、多様なソースからの情報を統合できる一時的貯蔵の限定された容量と期間をもつシステムとして説明した。それは中央実行系の制御をうけ、短期記憶と長期記憶の間のインターフェースを構成するのだろう。

初歩的な脳科学の知識を持っていない者にとって、誰にも理解できるモーツァルトの伝記的事実や書簡が紹介されるのと交互にこうした用語が登場するテキストは与し易いとは言いがたい。専門家にとってみれば、それらは十分に平たい表現に組み直されているのかもしれないが、ただでさえ、かたや音楽の話、かたや脳科学の専門用語、読み進めようにも、プツプツと神経回路が切れるような思いがする。

この気分に輪をかけるのは訳文の問題。極めて問題。例えば、「はじめに」の冒頭、つまりこの本の最初の文章だが、こんなふうなのである。

からだもなく、脳もないのだ! 一個の棺があっただけだろうか。これほど確実なことはないのである。リネンの袋は死体の分解に適していたようだし、聖マルクス墓地は世間の大物たちにしか個人用の墓を認めていなかった。墓の彫像はなくても、調子っぱずれの音を出しすぎたからといって人を地獄につれていくことはないだろう! モーツァルトのからだは土に帰っている。かれはどこにも存在しないし、どこにでも存在している。だからといって、人類が生んだもっとも有名な作曲家の権利を解説する権利があるのだろうか

映画『アマデウス』でも袋に詰められたモーツァルトの遺体が共同墓地に葬られる場面が描かれていたので、これがそのときの様子を語っていることは分かる。はるか以前に葬られ、消滅してしまったモーツァルトの脳について語ることができるのだろうか?と著者が反語的に読者に語りかけているのも分かる。だが、「一個の棺があっただけだろうか。これほど確実なことはないのである。」とはなんだろう? 「墓の彫像はなくても、調子っぱずれの音を出しすぎたからといって人を地獄につれていくことはないだろう!」とはなんだろう?

そのすぐ後の段落。

本書のような企画はいかにして生まれ、いかにして具体化されたのだろうか。最初は子どもの音楽的発達にかかわる一種の家庭用マニュアルを書くことが仕事だったが、(中略)企画はそのあと音楽の神経心理学概論の暫定的形式をとることになった。

「音楽の神経心理学概論の暫定的形式」はたいへんにシブイ。これは普通の日本語からはほど遠い。つまるところ原文は「この企画は、まずは(暫定的に)音楽にまつわる神経心理学概論といったスタイルでいってみようということになった」と言いたいのだろう。

今度は絶対音感の仕組みを説明する部分から。

絶対音感は三つの局在性を前提とする。(中略)絶対音感はべつの領域に等価物をもつのだろうか。わたしは一九八五年の「シャトーカノン」か一九七九年の「シュヴァル・ブラン」(サンテミリオンに長くいたので)のテイスティンググラスを手にして答える行為は、かなりよく似た認知操作に属すると考えられる。

これも目が点になるが、普通の日本語に直すと「絶対音感と同じようなものが他の領域にもあるのだろうか。ワインのテイスティングで、それが一九八五年の「シャトーカノン」か、それとも一九七九年の「シュヴァル・ブラン」かを言い当てるのは、音の高さを当てるのとかなりよく似た認知操作に属すると私には考えられる」ということだろう。

その章の最後の方。

予測能力の裏づけをもつモーツァルトの音楽記憶の想像をこえた能力が、強調されすぎることはないだろう。

これなどほんとに原文はどうなんだろうと興味深いところであるが、前後の文脈をたどるかぎり、おそらく、「モーツァルトの音楽記憶の能力は想像を絶するものだが、それが予測能力の高さに裏づけられている点は強調されすぎることはないだろう」じゃないかと思う。

次の章。映画『アマデウス』の描く軽薄なモーツァルトは、著者からすると「全然なってない!」と憤る文章はこんな感じ。

たぶん映画としてはまずまずだっただろうが、歴史的な面ではひどいできだったある映画は、少なくとも鎮静作用をもつイメージの息の根をとめる意義をもっていたが、この作曲家にじつにグロテスクな戯画化された解釈をあたえ、かれの才能をたえずわめきちらす一種のチック症に冒された、スカトロジックで興奮状態にあるいたずらっ子(かれは二六歳……だった)として描きあげた! わたしはこの映画に本物の人物像の歪曲しか理解しない。

どうです、だんだんおかしくなってきたでしょう! 『アマデウス』のモーツァルトのように「キャハハハハ」と笑い転げたくなってきたでしょう!

というわけで、実にシリアスなタイトルと上品なカバーを備えた一品は、実はお笑いだったというお粗末の一席で、「キャハハハハ」と笑い転げるモーツァルトを演じたい方にはお買い上げをお勧めするが、「わたしはこの映画に本物の人物像の歪曲しか理解しない」とおっしゃるような堅物のあなたは、きっと「この訳文をそのまま商品にした編集者は、日本語を読めるのか!」などと怒り出すに違いないので、やめた方がいいかもしれないです。


モーツァルトの脳

モーツァルトの脳