毎日そんなに書くこともない

一度、この見出しを使ってみたかったので。


昨日の日曜日、息子と久しぶりにキャッチボールをしたら、肩が痛い。もう数年前ほどにも体が動かなくなっている。腕が回らず、みっともない担ぐような投げ方しかできないし、飛んでせいぜい30メートルか40メートルか。ぼわーっとなさけない放物線が描かれるのみ。しかし、子供とキャッチボールと言っても、相手は15歳でボールは硬球とくる。あちらからは、ホップするような強い球が帰ってくる。「やれやれ」である。おまけに4日間連続で宴席を楽しんだばちがあたったか、どうも体がだるい。


「やれやれ」と言えば、『極東ブログ』のfinalventさんが素敵な『海辺のカフカ』論、村上春樹論を書いている。この人はすごい。

■海辺のカフカ(村上春樹)(『極東ブログ』2007年3月11日)


ねじまき鳥クロニクル』にぶち切れたとか、『カフカ』の「あまりに悪ふざけ的な超自然的な展開のご都合主義」だとか、甘い海外の批評だとかといった感想は同じ世代の読者として率直に分かる部分がある。それはさておき、評者のハルキさん、あるいはハルキさんを愛読した時代に感じる哀惜の情が糸満の断崖で波間の見えるのが素敵だ。


このところ個人的に凝っているモーツァルト(こういうのを流行言葉ではマイブームというらしいと最近知る)探索は、小林秀雄高橋秀夫→フィリップ・ソレルス→ピーター・ゲイときたところで、また某所から入れ知恵があり、安岡章太郎(30年読んでいない!)の『カーライルの家』というエッセイ集に、小林秀雄が道頓堀のモーツァルトを聞くきっかけになった日本文学史上もっとも有名な三角関係である中原中也長谷川泰子との確執や、関西への逃避行の思い出話が書いてあると教えられた。よし、それも読んじまおうと丸善にいったら、なんとなく足は音楽コーナーに向いてしまい、安岡章太郎の代わりにスタンダールの『モーツァルト』を買ってしまった。何が面白うて、こんなことをやっているのか自分でもよく分からない。暇人である。


スタンダールを読む前に図書館で借りてきた吉田秀和モーツァルトを主題にした小さなアンソロジーを読み始めている。含まれている十編のなかには十代の頃に読んだ『音階の音楽家』もあれば、初めて読むものもある。何れにせよ、内容は記憶から飛んでいるから、新しいお話のように楽しめる。ソレルスモーツァルトは音符のなかにしかないと書いていたが、それは結局吉田さんの著作のようなスタイルでしかモーツァルトの文学的な表現はあり得ないということではないか。この年齢になって読んで初めて思い当たることがあちこちに無造作に書かれている。たとえば。

それにしても、私はよく思うのだが、モーツァルトのように異常に鋭い耳を持って生まれた男にとっては、その鋭敏さは、しばしば非常な重荷でもあったに違いない。
吉田秀和モーツァルト--その生涯、その音楽』より)


こんなフレーズは十代の男の子が読んだってほんとど何も伝わらない。弦楽四重奏曲も、五重奏曲も聴いてなかったんだから。


ところで、吉田さんの文章のなかにこんな突飛なフレーズが紛れ込んでいて笑えた。

ある鋭敏な文芸批評家によると「写真は、芸術をやりたくてもできない連中を慰めるための代用品だ」そうだ。


吉田さんは、この言を引き取って「写真機が、絵具の代用品であるかどうか、私は知らないけれども」と書いているが、素人写真ブログを始めたオレのことじゃんと思ってしまったのであることよ。