カメラが撮ってくれる

ブログをやり始めてから日常的に写真を撮るようになり、いまや「趣味は写真です」と言っても嘘ではないところまで来てしまった。ブログを書いている功徳の一つだとありがたく思っている。


写真を撮るのは子どもの頃から好きで、親のカメラを使ってはよく撮っていた。山登りを始めてからは、山とカメラはセットになり、写真を撮るのが山登りの楽しみの幾分かを占めるようになっていたと思う。本気で撮るようになったのは、自動露出機能がカメラに入り始めた頃から。キャンデス・バーゲンが広告に起用されにっこりと笑いながら宣伝していたミノルタXDが我が家のカメラとなり、山では28ミリの広角(デジカメのレンズでは18ミリに相当する)をつかってデフォルメした絵を作るのが楽しかった。その頃に撮ったものは、どこかにあるのか、ないのか、ネガも押し入れの奥でかびてしまっているに違いないが、今でもこれはベストショットと思い出す数枚はちゃんと心の中に仕舞ってある。高校山岳部のOBで登った厳冬の赤岳での、阿弥陀だけをバックにした我らがパーティの写真。雨上がりの大菩薩峠から富士山を撮った一枚。それに真夏の上越の沢で大滝を登る仲間を写したもの。あと、リバーサルで雪に埋もれた正月の上高地・横尾・蝶ヶ岳の写真も自分一人で眺めては悦に入っていたっけ。


あの頃は自動露出の導入で誰もが失敗しない写真を撮れるようになり始めた時期だったが、それでも光線の具合が極端な山の写真はよく失敗の憂き目にあった。晴れた雪の日や真夏の日々の露出不足はもっともお馴染みのパターンで、現像するまではどんなにかきれいな写真が撮れただろうとわくわくするのだが、現像所から戻ってきたプリントを見たとたんにがっくりして熱が冷める。そんなことの繰り返しだった。


そのうちにオートフォーカスの時代を経てデジカメになり、失敗しない写真を撮るのは実に簡単になった。いまブログにあげている写真の半分は、昔ながらのカメラと僕の写真技術では撮れないものだ。それを補っているのはカメラの優秀な露出機能であり、液晶モニターの存在である。とくに液晶モニターで撮ったものをその場で確認できるのは素人にとってこんなにありがたいことはない。いちど写して、違っていたらそのときに露出補正をすればいいのだから。また、枚数を撮るのをためらう経済的な理由がない。これも技術のない者にとってはメチャ助かる。


僕がやっているのは素材を見つけることとフレーミングをやることだけで、実は撮っているのはカメラであるという意識をはっきりと持っている。そこを突き抜けて、カメラではなく自分自身が撮っているのだと思えるような写真が撮れるようになればこれはプロだろう。こんな時代にプロをやっている人はたいへんだという気も少しはするが、実はプロとアマの腕の差はますますくっきりとしてきたのではないかとも思える。