遠投距離は生命力の強さを表している

三上さんから一昨日書いた息子とのキャッチボールの話題にコメントをいただいているのを見つける。

ところで、息子さんとのキャッチボール、いいですね。ボールを介した繊細な意外に深いコミュニケーションですよね。羨ましい。ウチは娘が中学生のときバスケットボールをやってたので、時々河川敷のコートに行って、ボールの奪い合いみたいな、ニューヨークとかで黒人の少年たちがよくやってるやつ、をやってすぐに息が切れてついて行けなくなったことを思い出しました


「繊細な以外に深いコミュニケーション」。言われてみればなるほどその通り。しかし、男の子の親ならたいがいボール遊びをやる同士の不思議な親密さを体では知っててはいても、言葉にしてみたことがある人は少ないのではないか。さすが哲学者の鋭敏さ。三上さん、ありがとうございます。


末の息子は4月から高校生だが、中学校では陸上部で短距離をやっていた。中学に上がる時分に肘に痛みを覚えるようになり、お医者さんから投球は絶対にだめだと釘を刺されて仕方なく始めた陸上競技は、傍目に見ても本人のやる気はいまひとつで、けっきょく伸びずに100メートルを12秒も切れずに終わってしまった。忍従の3年を過ごした本人は、肘も治ったいま、あらためて野球に燃えており、受験が終わった日から心は高校野球である。小学校のときに一緒に少年野球をやっていた仲間二人がこの春甲子園に行く学校に入学するのも相当な刺激になっている模様。しかし、彼の行く学校は、全員で10人の超少数精鋭チームだそうな。どうなることやら。


子供が小さい頃から相手をしてきたキャッチボールは、いつの間にか相手をしてもらう立場になってしまった。ほんとにキャッチボールほど、子供の成長と、同時に自分の肉体的な衰えをあらわにする時間もない。ついて行くのがやっとでも、しかし、キャッチボールになる間はせいぜいがんばってつきあうぞと心に決めているのだが、あと何年続けることができるだろうか。人生は案外短い。


ところで、Emmausさんに教えていただき、狭かったコメント記載欄を大きくすることができました。ありがとうございました。