写真の楽しみ

三上さんと下川さんが写真を仲立ちにして興味深いやりとりをなさっています。下川さんには私のエントリーにもリンクを貼っていただきましたので、「一緒におしゃべりしようよ」という呼びかけも含まれているかもしれないなとは思うのですが、私は、写真という表現手段や芸術の枠組みについて語る強い欲求を持っていないようです。ですので、ほんとど何も考えてないことについて迂闊に語れないしと考えてしまいます。

でも、というべきか、だから、というべきか、新しいエントリーで下川さんが「写真は楽しみたい」とおっしゃっているのは、自分の感じ方と近いのかもしれないとは思います。楽しくなきゃ撮ってないという意味では、たぶん、近いでしょう。


■たのしいものとたのしいこと(『Emmaus』2010年9月8日)
■写真はほんとうのところはよく分からないがたのしみたい(『Emmaus』2010年9月9日)


私の場合、下手な写真を撮って喜んでいるのは、私の中にある“「素敵な造形」のイメージ”を目に見えるかたちで表したいという欲求があるからなのだと思うのです。その“「素敵な造形」のイメージ”が何か、どんなものかと考えると、あまりそうは認めたくないと思うものの、いつかどこかで自分の中に植え付けられたステレオタイプのそれかもしれないと思うのです。そう考えることはままあります。私の場合、それはおそらく写真という範疇からではなく、絵画からもたらされたイメージであるような気がします。いつかどこかで感銘を受けたイメージを自らの手で再現したい、そうしたものに近づきたいという欲求は隠れているのではないか。

だとすると、これは新しい表現を開拓するという意味での芸術的な営為とは異なるものです。私には写真に関するかぎり、若い頃からそうした助平根性がまったくありませんでした。だから、写真を撮ることに関しては、とても気が楽です。うまくなるということもありません。人と異なることをしたいという意味での技巧にも興味はありません。

ただ、カメラを構えたときに、「これはこういう画に撮りたい」「こういう風に写って欲しい」という欲求は強いのです。そのために構えたのに、そのように撮れないということに不満を感じる。それは色だったり、露出の問題だったり、コントラストのイメージの違いだったりするのですが、そのために技術と機材のことに意識が向いてしまう。下川さんから「偶然を楽しまなきゃ」と言われちゃいそうですが、そこは「わかっちゃいるけど、やめられない」の類なんだなあ。つまり、分かっていないのですね。

私の性向はおそらく写真よりも絵に向いているのです。写真は、絵を描けないことに対する代償行為なのですね。