女の子が空から降ってくる世界で

少し以前に「女の子が空から降ってきた」をテーマにして創作を発表するというイベントがはてなのどこかで、誰かの発案で実施されたはずだ。あるブログを読んでいるときに、そのイベントに関するエントリーを目にし、好奇心がそよいだ。そこに進んで参加するつもりにはならなかったものの、意表をついたイベントを発案した人の才気煥発さに刺激を受けるとともに、「空から降ってくる女の子」のイメージが目の前に浮かんで、そこから何かを言わなければいけないような気分に襲われたことを白状してみよう。

「空から降ってくる女の子」のイメージは僕の中で真っ二つに分かれている。右側の映像は宮崎駿の『天空の城ラピュタ』のそれで、ヒロインの女の子が、主人公の男の子の立つ場所に光り輝きながら、ふわふわと、漂うように降りてくる、美しいイメージ。左側のもう一方の映像は、いやこれは正確に体験として目にしたのは映像ではなく、静止画像、新聞・雑誌の写真なのだが、業火のワールド・トレード・センターから真っ逆さまに飛び降り、重力の赴くままに地上を目指す市民の姿である。双方ともに、疑いなく「空から降ってくる女の子」である。かたやエンターテイメント作品の登場人物として、平和とやすらぎのイメージを伴って地上へと降りてくる女性。かたや質の悪い災害映画の登場人物としてではなく、その直前まで生身の個人として生き、その直後に肉塊となって世界の不条理さを訴えるために地上へと降りてくる女性。

これが我々が生きている世界である。僕は繰り返し見るもっとも素敵な夢のなかで、自在にとはいかないまでも、なんとかふわふわと空を飛び、大いなる満足を味わう。また、ある種のタイプの悪夢のなかで、へばりつく岩壁から落ちそうになり、ついには墜落をしては目を覚ます。現実の世界でふわふわと空を飛び、ふわふわと空から降りてこられないのは、おそらく運がないからだと思う。同時に、どこかで墜落の憂き目に出会わずにすんでいるのは、おそらく運があるからなのだと思う。二つの異なるイメージは、空を飛べないことに失望をすることはないと僕に語る。あなたはまだ地上に落ちて肉塊と果てる運命を知らないし、まだそれは人ごとだと心の底では思っている。その、あなたの迂闊さこそが、あなたの幸せなのだ。そう語る。

9月11日が来ると、かつてワールド・トレード・センターが聳えていたニューヨークの空を思い、僕の幸せと僕の迂闊さとを思う。しかし、再度言いたいのだが、あの時、ワールド・トレード・センターの最上階で言葉を交わしたアジア人の女の子は生き延びただろうか。いまだに気にかかる。長い時間、ずっと気にかかることになるのかもしれない。


■プロパガンダと真実(2009年7月3日)