ミュンヘンのキャンプ場

30年前にミュンヘンのキャンプ場に泊まったのは、日本以外の国の土を初めて踏んだ最初の日のこと。フランクフルトに到着し、そこからすぐにドイツの国鉄に乗って南下、くたくたになって当初予定していたミュンヘンのキャンプ場に到着したはずだ。朦朧とした記憶の向こうに、1980年7月の空に、高く太陽が輝いている。高緯度地方の、夜の8時になっても落ちない太陽だ。

長旅の疲れと、その日の暑さとで、テントの中に寝っ転がった僕はへばっていた。おそらく軽い日射病にでもかかっていたのかもしれない。キャンプ場といっても、そこは日本で言うオートキャンプ場だから、バックパッカーの小さなテントなどほとんどない。周りは家族連れのドイツ人ばかりで、初めての異国で一人ぽつんと所在なく、お茶を飲もうとしたのか、食事を作ろうと思ったのか、その辺りはまったく覚えていないが、持ってきた携帯コンロを付けようとしても着火しない。

小さなテントの東洋人はきっと傍目にも目立っただろうし、困ったという顔をしていたのだろう。隣のサイトから品のよい中年のご婦人が自分たち家族が使っているコンロを手にやってきて「使いませんか?」と声をかけてくれた。「使いませんか?」というのは、おそらくそういう類の言葉だったはずというぐらいの記憶で、実際に彼女がどのような言い回しをしたのかを明確に覚えているわけではない。だいいち僕は英語は少々、ドイツ語もほんの少々という程度だった。とっさに「大丈夫です」という反応をしてしまった。別に大丈夫でもなんでもなかったはずだが、周囲の風景(=外国)と自分の間に膜があって、それが理由でうまくコミュニケーションがとれない風だった。彼女はなんだか困ったような顔をして戻っていったのではなかったか。暑いテントの中に寝っ転がりながら、とんでもないところに来てしまったと思ったような気がする。そして、そんな気分は次の日になり、その次の日になった頃には、どこかに消えてしまっていたようにも覚えているが、初めての外国で頼りない気持ちに陥ったという事実はいまだに心のなかに残っている。こういう穴ぼこに落ちるような体験はとても重要だと今になって思う。

その日、ミュンヘンのキャンプ場に張られた二人用ドーム型テントは、東京の山用品専門店であるさかいやのオリジナル商品だったが、その後も欧州各地や日本の山を旅し続け、90年代にはアメリカに飛んでマウント・レーニアやニューヨーク郊外のベアマウンテンなどUSAのキャンプ場に出現し、99年の夏にガレージセールでニューヨーク郊外に住むアメリカ人のおじさんに売り払われた。売値は3ドル程度だったのではないかと思う。