高橋英夫『疾走するモーツァルト』

高橋英夫さんの『疾走するモーツァルト』は1987年の出版で、近頃、講談社学術文庫で文庫化されたばかり。僕はたまたま神保町で古本を入手し読んだ。


高橋英夫さんの著作を読むこと自体初めてで、この仕事が高橋さんの仕事の中でどういう位置を占めているのか、他にどのようなものをお書きなのか、まるで知識がないのだが、あまりに素晴らしい著作で読書の喜びを存分に味わうことができた。


『疾走するモーツァルト』は、著者が小林秀雄を直接知る「S氏」と小林秀雄の音楽体験、音楽観について談論している場面から始まる。本書は、書名が暗示しているとおり、モーツァルト論であると同時に、モーツァルトをめぐる小林秀雄論である。さらにそれは小林秀雄モーツァルト受容を考察し、その意味を浮かび上がらせる目的で我が国におけるモーツァルト受容史にまで探求の先を広げ、論は再度、小林秀雄を経て最終的に再度モーツァルトに戻ってくる。あたかも、ポリフォニーの楽曲が鳴り響くように、あざなう縄のような複数のテーマが変幻に鳴り響く。その構成が音楽的、あたかもモーツァルトの音楽を表現しているかのように表現されている事実にまずはほれぼれとする。それぞれのテーマは、それ自体で主旋律となり得るような、十分な思い入れと下勉強を経て描かれており、間然するところがない。


高橋さんの手法は伝統的な文芸評論のそれ。小林秀雄の延長線上で小林秀雄小林秀雄モーツァルトを論じている。まるで小林秀雄が少々物わかりのよい文体を身につけて自分自身を語っているかのような錯覚さえ覚える。あるいは、年を経てモーツァルトに関する伝記的情報をさらに手に入れ、音楽的教養をも先鋭化させた小林秀雄が『モオツァルト』を再度語っているかのような気分にさせられる。


任意の一節を書き抜いてみる。

私はこれについて、こう考えている--栄光も闇も、それぞれについての個別的な原因や動機は推定ができようし、それらの複合がモーツァルトを途方もない所まで赴かせたと推察するのは可能である。しかし真の原因は分らないのだと信ずるしかないとすれば、因果律的な--原因があって結果が生じるといった--組み立ては、ある所までしか届かないのである。不可能性の領域があり、そこでは光と闇は背中合わせになっている。それを人間的尺度ではかることはできない。モーツァルトには人間性を超えたものがある。こう見たとき、私が想像しうるのは「唯一者」に出会い、出会いにおいて孤独たらざるをえなかった人間が、現実に戻ってきた時、異質な人間になていただろうということしかありえない。
高橋英夫『疾走するモーツァルト』)


高橋さんは知識と直感が交差する地点で、思いがけない独創的かつ説得的な推測、仮説を手にしてそれを言葉にする。そこから重層的に積み上げる演繹の、豊富なレトリックを携えての重層は、まさに小林秀雄の手法そのもの。「これは再び、『モオツァルト』の、小林秀雄の愚を繰り返している書物だ」と感じる人がいても不思議ではない。同じ理由から、小林秀雄の手法による小林秀雄への言及に酔った人もたくさんいるだろう。


このブログでもネタにした弦楽五重奏曲(k.516)に関する記述は、題名が示すとおり、この著作の中心に位置している。それについては、ブログへの走り書きで何事かを記載するにはあまりに繊細である。その点も含めて、小林秀雄に関しては、面白い事実がいくつも紹介されているが、例えば、僕がなるほどと個人的に注目するのは、戦後、若い人たちとの座談会で小林秀雄がこんなことをしゃべっていたという事実の記述について。

A モーツァルトについてもう一度お書きになりませんか。
小林 もう書かないね。僕は次から次に興味があるものを追うんでね。それに僕は音楽論はあまりできないよ。勉強してないからね。今度音楽について書くときは、うんと勉強して、ちゃんとした音楽論にしたいと思うな。「モオツァルト」と同じ調子でまた何か書こうとは思わないね。


やはり、小林秀雄は自身の音楽を語る語彙について自覚的だったのだ。そうした地点から吉田秀和はじめ、本格的に音楽を言葉にする専門家の仕事が始まっていることを確認できたのも小さな収穫だった。内容に立ち入るコメントはまだできない。小林秀雄的レトリックを解きほぐすべくいま再読中なので、また気が向いたらトピックとして取り上げさせていただきたい。


新編 疾走するモーツァルト (講談社文芸文庫)

新編 疾走するモーツァルト (講談社文芸文庫)