モーツァルトが求めていたもの

高橋英夫さんの『疾走するモーツァルト』は、「ハイドン・セット」の分析から始まる。傑作の誉れ高い「ハイドン・セット」は、弦楽四重奏というジャンルの創始者であり、音楽の師と仰ぐハイドンモーツァルトが捧げた6つの弦楽四重奏曲の通称である。小林秀雄は『モオツァルト』の中で「彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまるといふ想ひに感動を覚えるのである。」と書く。典雅にして、緻密、溢れるばかりの新しい試みに満ちたこの中期の傑作について、高橋さんは次のような問題認識を呈する。

たしかに≪ハイドン・セット≫六曲の諸所方々から、ハイドン風な音色と主題も耳に聴こえてくる。たとえば三曲目変ホ長調と四曲目変ロ長調≪狩≫の終楽章がハイドンを思わせる明快率直さを見せているだけでなく、実際にハイドンの主題も幾つか取り入れられてさえいる。≪リンツ・シンフォニー≫でも顕著なハイドンの痕跡が認められる。それでいてモーツァルトハイドンを超えていった。ハイドンにないものがあらわれたのだ。高翔したモーツァルトは、いつしか「唯一者」ハイドンを超えたのである。超えられたハイドンはただ時代の巨匠の一人にすぎなかった。それにもかかわらず、モーツァルトは唯一性という観念を信じ、ハイドンに信服している。この錯綜の中にモーツァルトの秘められた核がある。
(『疾走するモーツァルト』より)


高橋さんがヘルダーリンを媒介として持ち込んだ「唯一者」という概念。神に選ばれた「唯一者」としてのキリストになぞらえて、カトリックの世界に生まれたモーツァルトには、この「唯一者」の思想が色濃く流れていたのではないかと高橋さんは想像する。その思想の変奏が、現実世界の唯一者である父、レオポルド・モーツァルトへの絶対服従、音楽上の唯一者として選ばれたハイドンへの献身的な傾倒ではなかったかと高橋さんは説いている。

唯一者というコンセプトから逃れられなかったにもかかわらず、「ハイドン・セット」の時点で、仰ぎ見る唯一者を図らずも超えてしまったモーツァルトは、つまり人間として行きつくところまで行ってしまい、この世界に戻ってきた人間しか味わうことのない深い孤独を携えてきた。その孤独、振幅の幅がモーツァルトの人間離れした音楽を作ったのだと高橋さんは言う。


以上は序章を含めた八つの章からなる『疾走するモーツァルト』の第一章『唯一者』の乱暴な要諦である。高橋さんの小林秀雄的「唯一者」発見は見事だ。モーツァルティアンは、モーツァルトの非人間的な作品の魅力をどうにかして説明したいという思いにとらわれるものらしい。ためしに大きい書店のクラシック音楽の棚を探してみるとモーツァルト本の多さに驚く。未だに、東洋の端っこですら、モーツァルトは観念として生きているのだ。


ここで同書は、ハイドン・セットで明らかにハイドンを超えたモーツァルトが、あくまでハイドンにこだわり、彼に対しへりくだることの不自然さをモーツァルト論の出発点として提示するのだが、実は彼らモーツァルティアンが間違っており、モーツァルトが正しかったと考えてみることはできないだろうか。つまり、モーツァルトは自分自身がハイドンを超えたとは思わなかったのだと。モーツァルトは常に正しかった。彼にはすべて見えていたと考えてみるのである。


この仮説に肉付けをするためには、モーツァルトハイドンを超えようとして達成できたものとできなかったものを明らかにしなければならない。それは何か。達成できたものの反映は万人に見えていよう。では超えられなかったものは? 僕は「平明さ」「軽み」ではないかと思うのだ。


複雑なものは単純なものよりも優れているという近代人の常識と感覚は、モーツァルトをデモーニッシュであると捉えたゲーテによって、モーツァルトに「悲しみ」を見たスタンダールによって、彼らの言説を『モオツァルト』で我が国に定着させた小林秀雄によって、固定化されている。たしかにモーツァルトがもたらした新しさは、ハイドンを含む彼以前の作曲家が示したオリジナリティのレベルをはるかに超えていた。その微分量の大きさによって、彼はオリジナリティのチャンピオンとして後生のあらゆる人々から崇め奉られる対象となり、後生の音楽の萌芽はすべてモーツァルトの中にあることになった。しかし、モーツァルトが求めていたものがハイドンの四重奏曲の持つ「軽み」だと仮定すれば、モーツァルトには実現しようとして実現できないものがあったのではないか。「ハイドン・セット」はどんなに明るく、溌剌としたナンバーであってもモーツァルトならではの重たさを持っている。文字として残る彼のハイドン礼賛は、単に先輩を立てた社交辞令ではなく、モーツァルトにとってハイドンの「平明」「軽み」が終生追い求めた価値だったことの証明だと受け止めるべきだと僕には感じられる。つまり、モーツァルトの音楽脳は単純な曲を書くことを彼に許さなかった。彼はハイドンのように書こうとしても書けず、曲はどんどんと複雑さの度合いを増していく。そのある種の狂気の世界にモーツァルトはいたのだというのがハイドンを聴く僕の想像だ。


こう考えてみると、高橋さんが本書の中で引き合いに出しているモーツァルトの同一音型の利用は、異なる解釈の余地を持って我々の前に現れてくる。高橋英夫は、「ハイドン・セット」で繰り返し現れてくるある種の上昇音型について、彼の「唯一者」のセオリーに基づいて「彼がこのときはじめて唯一者に向かって立つ人間を音型の中に表現しえた」結果だとして捉えるのだが、これは論理的な筋道が小林秀雄的に飛躍しており、今ひとつ分かりにくい。僕は、そうではなく、基本音型は、単純なもの、平明なものを求めるモーツァルトの方法論の表明であり、率直な心の動きを示しているのではないかと考えるのである。したがって、『疾走するモーツァルト』の中でも何度も触れられている最後の交響曲『第41番ハ長調 ジュピター』の終楽章の必要なまでの基本音型「ド・レ・ファ・ミ」の繰り返しは、「平明」「軽み」を求め続けたモーツァルトの、まさに終着点であることを表している。僕はそう考える。純粋な平明さ。明るさ。


こうしたパラダイム転換を前提とした目で再度世の中を眺めてみれば、マーラーの複雑な楽曲が、モーツァルトよりも優れていると必ずしも考える必要はないことも、我が家の子どもたちが大好きなEXILEモーツァルトよりも駄目だと考える必要はないことも、それなりに了解されるのである。


これはお読みいただいている方には無意味な感想かもしれないが、こうして言葉を紡ぎながら思うのは、高橋英夫さんの文章に触発されて動き始める、自分の中にある小林秀雄的なものの強さである。自分自身のことなのに、ちょっと虚をつかれた感じがする。