今にあるモーツァルト

ドイツからアメリカに渡り帰化した思想史家のピーター・ゲイがモーツァルトの生涯を一般読者向けに綴った『モーツァルト』という著作を著している。岩波から翻訳が出ている同書を一通り読み、その素晴らしさに感嘆しつつ、フィリップ・ソレルスの『神秘のモーツァルト』を再読する。

この二つの本の著者がモーツァルトに対して向けるまなざしは驚くほど似ている。小林秀雄の『モオツァルト』、高橋秀夫の『疾走するモーツァルト』が、ある種の同一線上で物語を紡いでいる印象を抱かせるように、ゲイとソレルスは、やはり同じベクトルを共有しているのが一読して分かる(それが何かについては今日はまだ触れないでおきたい。これら多面的な内容を包含する二つの著作をうまく語る自信がまだないので)。そうであるが故に、同じ限られた資料を基に語る二人の著者の違いもまた大いに興味深い。ピーター・ゲイの『モーツァルト』は、この天才作曲家の生涯を最新の資料を基に振り返る、歴史学者らしいオーソドックスなスタイルのモーツァルト本であるが、これに対して小説家であるソレルスの『神秘のモーツァルト』は、もっと自由闊達な表現手法がいかにもモーツァルト的である。

ソレルスの著作に関する新聞の書評が二つ、毎日新聞に掲載された池内紀のそれと中日新聞上の早稲田大学教授・小沼 純一さんの文章がWebで読める。mmpoloさん(id:mmpolo)、三上さん(id:elmikamino)のお二人にご教示いただいた。これらを読めば、ソレルスの著作の雰囲気を想像するのは難しくないだろう。


http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/news/20070218ddm015070046000c.html

http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2007020401.html

ぼくらは、このぼくらは、単なる端役なのだ、真実は楽譜のなかにあり、その紙が、ぼくらのとは性質のちがう時間を生み出すのである。
(『神秘のモーツァルト』p37)

ここは池内紀さんが書評で引用しているフレーズだが、韜晦なソレルスは、こういいながらとりとめのないおしゃべりをやめない。徹頭徹尾、音楽であることによって、後生の者たちからさまざまな賛辞を引き出すモーツァルト。それを十分に意識しながら、決して到達できない真実に向かってアキレスの矢を放つソレルス。決して到達し得ない真実への接近に荷担させられるのは、ランボーであり、ニーチェであり、ハイデッガーといった面々なのだからソレルスは人が悪い。

つまり何なのか。三つの大きな章からなる本書の最初の章「身体」でソレルスハイデッガーモーツァルトに対する言及をだしに語るこの部分。ここに本書の大きな山の一つがある。

「つまり、ハイデッガーは謎を言い当てているのだ。「モーツァルトが聞いている者たち全員のなかで、最もよく聞いた人間のひとりだった、ということです。モーツァルトは、そういう人間『だった」のです。つまり、モーツァルトは本質的に最もよく聞く人間であり、したがって、いまでもなおそうだということなのです」
過ぎ去る(パッセ)ということは、そこにあった、とおなじではない。じっさいにあったということは、存在する、ということなのである。
存在することも可能だし、存在したことも可能なのだ。
ただ、それは希なことである。
モーツァルトは、だから彼の音楽を聞くことができる者にとっては、たえずそこにいるのだ。
その証拠が、≪交響曲第39番変ホ長調≫の採取楽章である。いま、まさに、モーツァルトの信じがたい陽気さがただよっている。僕らは1788年6月26日にいる。レナード・バーンスタインウィーン・フィルハーモニーを指揮している。録音は1984年だ。これらすべての日付は「今日」なのだ。
(同書p63)

数多くのクラシック音楽好きがこれまでぼんやりとは感じていても、ついに言葉にできなかったフレーズをソレルスはここでついに形にしたのだという感慨にとらわれる。演奏をするということ、演奏を聴くということはそういうことなのだ。演奏とは音による想起の別称である。楽譜であり、音楽であるモーツァルトは、今現在に、私たちとともに偏在している。しかるが故に、ということだろう。気がついてみれば『神秘のモーツァルト』におけるソレルスの記述はモーツァルトの手紙をいま交わされているそれと読み替えるようにして、現在形を多用するかたちで進んでいく。つまり、本書の中には次のような言い回しが頻出する。

ヴォルフガングは急いでいる。よい台本がひとつ手もとにあって、それがのちに≪後宮からの誘拐≫となるのだが、その可能性を見抜いた彼は、はやくも口ずさんでいる。いまは八月。九月には完成させなければならない。
(同書p163)

ともあれ、ヴォルフガングは一年後に結婚するだろう。コンスタンツェの母親は、そのための配慮をおこたらない。
(p164)


この批評性には脱帽だ。ここにソレルスの音楽的感性、音楽を言葉に置き換える試みの妙を見いだせないならば、そのモーツァルト的レトリックを楽しめないならば、本書の魅力は半減してしまう。モーツァルトの韜晦さに対抗し、著作のなかでせいいっぱい韜晦であろうとする著者のたくらみに拍手を送らないわけにはいかない。

本ブログを以前からお読みいただいている方向けにもう一言を付け加えると、ソレルスモーツァルトに対する執着は、想起にこだわる我らが思想家、『三上のブログ』の三上さんと「記憶する住宅」の三崎薫さんにストレートにつながっている。