伊良部のいたニューヨーク

伊良部秀輝が死んだ。僕が家族とともにニューヨークで過ごした時期は、伊良部がニューヨーク・ヤンキースの先発ピッチャーとして毀誉褒貶の選手生活を過ごした時期とほとんど重なっている。一介のファンながら、同じ異国の地でプレーする同郷選手を特別の思いを込めて眺めていた者にとって、その死には少なからず感じいるところがある。この文章も書きにくい。

当時、伊良部の登板についての新聞報道は、ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ポスト、ニューヨーク・デイリーニューズの3紙はほとんどすべて目を通したんじゃないかと思う。テレビ中継も、観られるものはすべて観た。

ニューヨークのメディア、ファンの大きな期待を背負って彼の地に上陸した彼の最初の登板は、いまでもよく覚えている。翌日のニューヨーク・タイムズは一面でその勝利を取り上げ、ヤンキースタジアムには多くのアジア系ファンが押し寄せ、東西のカルチャーが融合したと興奮気味に書いた。試合を見に行った日本人の若い同僚は「すごかったですよ」とやはりうわずった声で語っていた。

そんなムードが一変するのに時間はかからなかった。二つ目の登板試合を落とし、あれは彼にとってのピンストライプでの3戦目だったか、4戦目だったか。敵地のブリューワーズ戦でノックアウトされ、球場を埋めるブリューワーズ・ファンの大きなブーイングの中、マウンドを降りる伊良部は、そのブーイングに向かって盛大に唾を吐くパフォーマンスをしてみせたのだ。それ以降、あからさまにニューヨークのメディアが彼を語る調子が変わった。タブロイド紙のニューヨーク・ポストは一面にその姿を掲載し、「Yankee Spitter」という大きな活字を当てた。「唾吐きヤンキー」、あるいは「ヤンキースの唾吐き男」とでも訳すべきか。ニューヨーク・タイムズは、伊良部が雨の中、通訳に自分の荷物を担がせて、彼が濡れ鼠になっているのに平気な顔をしている、チームメイトが「通訳がかわいそうだ」と言っていると、クオリティ紙という看板とはまるで相容れないゴシップ記事を大きく掲げた。

それ以降、伊良部はずっとそんな雰囲気の中で投げ続けた。すばらしくよい投球をしても、勝ち星がつかないで途中降板すると、他の先発投手のようにはメディアは褒めてくれなかった。当時、ニューヨーク・タイムズヤンキースのファン用掲示板を眺めていると、伊良部に対する辛辣な見方はよくわかった。それでも、ファンの中には「彼は歴代の5番手先発投手としては最高の選手だと思う」といった投稿をする者があったりして、自身の意見をしっかりと表明することを躊躇しないアメリカ人の強さに気付かされたりもした。
ともかく、ニューヨークの伊良部はそんな存在だった。彼のニューヨーク生活3年目となる1999年、10勝を超える勝ち星を上げた(最終的には13勝した)年だったか、その翌年、開幕から連勝を続けたときだったか、ニューヨーク・タイムズは「みんな伊良部に謝るべきだ」という見出しの記事を掲載した。驚きのタイトルではないか。日経新聞朝日新聞が、一人のスポーツ選手の活躍に対し、「みんな謝るべきだ」と書いたのだ。でも、僕が知るかぎり、そんな記事の存在は日本では大きな話題になることはなかった。伊良部の抱え込んでいた苦闘の意味自体が日本ではうまく紹介されてるわけではなかったから。

思えば、伊良部はトンチンカンで不器用な奴だった。高給取りの野球選手に対して入場料を支払った観客が盛大なブーを見舞う権利があることをまったく知らなかった。あの唾吐きで、アメリカの常識を敵に回したことも彼はよく分からなかったのだと思う。ある完投勝利後のテレビインタビューで、彼がアナウンサーの質問に通訳を介して答えていたのを観たことがあるが、通訳を介して、インタビュアーとイタビュイーはまるで違う空気の中で質問と回答をしているように感じたことがある。伊良部は、インタビュアーが要求しているのではない、なんとも高尚な野球哲学を披露していた。ヤンキース時代の伊良部はそんな風にして、徹底的にトンチンカンに、我が物顔に、アメリカと対峙していた。

僕はそんな不器用さを含めて、彼が嫌いではなかった。なんといってもあの剛球は魅力だったし、それをいとも簡単に打ち返すメジャーの強打者との戦いは、日本と世界とのそれを直截に見せられているような気分になった。

1998年の秋、伊良部が活躍した年のハロウィンに、二人の子供たちはヤンキースのピンストライプのユニホームを着てパレードに参加した。背番号は伊良部の35だった。彼が首を括る前に、そんなファンがおそらく何人もいたんだよということは伝えたかった。そんな風に思う。「Hideki Matsuiのいたニューヨーク」を知らない僕の、「Hideki Irabuのいたニューヨーク」に思いをいたす。