細川布久子著『わたしの開高健』

id:mmpoloさんに教えていただいた細川布久子さんの『わたしの開高健』を読んだ。5月末に集英社より刊行された本である。

著者の細川布久子さんは、大学卒業後に働き始めた雑誌『面白半分』で開高健の担当となり、80年代半ばに渡仏するまでのおよそ10年間、仕事にとどまらず、買物、裁縫、隠し銀行口座の管理にいたるまで、まるで個人秘書のように開高氏とかかわり、その人となりに接してこられた方とのこと。というよりも、もっと分かりやすい説明としては、開高健と近しい人々が開口を語った『これぞ、開高健』の編集者が細川さんなのだ。本書は、そうした立場にあった人でなければ語りえないエピソードがここかしかに散りばめられた私的エッセイである。

作品以外の、こうした人となりに触れる文章を読むこともファンには楽しみである。行間から立ち上がる大兄の眼差しや、大音声に、しらっちゃけた日常を一瞬であれ忘れる、というのが、アマゾンにも、モンゴルにも行けないヤマトの開高ファンの、密やかで、したたかな楽しみなのであって、あなたがそうした人種であれば、自ずから引きつけられるに違いないし、同時に、開高センセのエピソードをひと通り知っているのでなければ、何を書いているんだか、という類のもの。紛れもないオタク本である。

エピソードで読ませる本なので、ここでそれらを紹介するのは反則のような気がする。とくにこの本の場合、そんな気分になるのは、この方が、この方の語り口で紹介するのでなければ、他人が横から要約するような真似をするのはいけないんじゃないかと思わせるのは、この本がまっすぐな愛情の表現だからだと思う。著者は常に担当編集者という一歩引いた立場から開高さんを眺めており、「愛してます」とストレートに口にするようなはしたない品性からは隔たってはいるけれど、ここに表現されているのは、大学生の時分に『夏の闇』を読んでその文章に惚れ込み、就職のため上京した後、偶然に開高その人の担当者となって人生の航路に大きな影響を与えられた著者ならではの、女性的な愛情に他ならない。本書のタイトルは『わたしの開高健』だもの。

冒頭、この本が「その頃、ぼんやり暮らしていた」という一文で始まるのは、『夏の闇』の「その頃も旅をしていた。」のもじりだろう。その直後に著者は『夏の闇』に出会ったときの興奮を思いのたけいっぱいに語るのだが、そもそも世の開高ファンには二つの種類があって、一つは釣行に代表される彼の紀行文に魅せられる者たちのグループ。二つ目は小説家開高のファンである。細川さんは、明らかに後者に属する方で、ちなみに後者は前者を兼ねる場合があるが、その逆はあまりないというのが、この者たちの棲み分けの特徴である。

何が言いたいのかと言えば、文章の魅力という点はさておき(いや、開高氏とわたりあえる文章の持ち主は滅多なことではみつからないわけだけれど)、本書はもうひとつの『夏の闇』、あるいは未完のままに残された『花終る闇』の、細川さんによる密やかな補筆完成版に思えるのである。その細川作品は、思いがけない、これ以上ない美しさのエピソードで終わる。この部分を読めただけでも、この本を買った甲斐は十分にあったなと思うのは、自分が開高小説のファンである証拠のようなものだろう。そんな本である。


わたしの開高健

わたしの開高健