西洋音楽はアフタービートか

森本恭正著『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』(光文社新書)を読んだ。著者の森本恭正さんは芸大の後にウィーン国立音大で学び、彼の地で作曲家としてのキャリアを築いた音楽家。その著者が、これまでのご自身の体験に基づいて、日本人と西洋音楽の距離、日本の音楽と西洋音楽の違いについて思うところを綴ったのが本書だ。タイトルが「西洋音楽論」だが、内容はそれほど硬い作りではなく、6章立てのエッセイという方が正しい。サブタイトルの「クラシックに狂気を聴け」は、想像するに「西洋音楽論」をタイトルとして主張した著者に対し、「なんぼなんでも、それじゃ新書としては売れないだろ」と当然のように考えた編集者が、それとは正反対の色合いのサブをつけて懸命にバランスを取ろうとしたように見えるが、「この正副のタイトルじゃ何言いたいのかさっぱりじゃねぇか」と言いたくなる芸のなさ。ご愛嬌といえば、それまでだが、これはなんとももったいない。

それはさておき、ごった煮のように盛りだくさんのトピックの中で、僕にとって刺激的だったのは、第1章で取り上げられている「アフタービート」の話だった。その話を少し。

アフタービートは、英語の普通の言い方だとアップビートになる。ドイツ語だとアウフタクトである。1、2、1、2、という拍があるとすると、クラシック音楽の教科書では「1は強く、2は弱い」と教える。あるいは「アクセントは1にある」と教える。これに対して、20世紀のポピュラー音楽は、2の拍にアクセントを置く。ウンタッ、ウンタッというリズムの上に音楽が進む。

ところが、あるきっかけで著者は「実は伝統的な西洋の音楽もアフタービートなのではないか」と思い始める。本書の中で取り上げられているエピソードや考察を紹介すると……。

1.英語圏でもドイツ語圏でも、クラシック音楽のレッスンの中で先生が拍を取るときには「One and Two and」(ドイツ語なら「Eins und Zwei und」)と言葉で表現するが、このとき強い拍であるはずの「One」や「Two」ではなく、実際には「and」を強く言う。つまり、弱い拍であるはずの「and」が強い拍になっている。

2.アメリカでもヨーロッパでも、軍隊の行進は左足から始める。利き足であるはずの右足が弱拍である2拍目に前に出る。

3.バッハのバイオリン曲の強弱の波形を二人の著名バイオリニストの演奏で見ると、弱拍の部分の方がむしろ強めに弾かれているのが分かる。

4.欧州に数年いると日本人の演奏は一聴してそれと区別できるようになる。これは弱拍の扱いが違うからだ。

こうした知見を踏まえて著者は呟くのである。「もしかしたら本当に、クラシック音楽も基本的にアフタービートなのかもしれない」

クラシック好きの方なら、この論には挑発されるものを感じるのではないだろうか。少なくとも僕はそうだった。そんな風に、つまり西洋古典音楽の基本がアフタービートだなんて考えたこともなかったから。だから、こうした感想が繰り出されるたびにひどく驚き、新しい発見を目にする気分と、それからこれが問題なのだが、これは違うという反発とが同時に湧き起こったのである。

このエントリーは「皆さんはどう思います?」と尋ねてみたい気分で書いているので、よかったら、当の新書を手にとってもらい、思うところを教えて下さい。

数日間考えた。西洋人は弱拍を実は弱く歌うわけではない。日本人よりも、きっちりと歌う。これはおそらく著者が指摘するとおりなのだろう。なーるほど、と思った。実に腑に落ちるところがある。著者は、我々日本人がうまく演奏できないときに、意識して弱拍を強く演奏してみると、往々にしてメロディが生きてくると述べているが、そうかもしれない。これは、今まで誰からも言われたことがない、しかしかなり的を射た指摘に思える。

ここまでは、著者の指摘に賛同と敬意を表するのだが、この先で「もしかしたら本当に、クラシック音楽も基本的にアフタービートなのかもしれない」と言うのは言い過ぎじゃないかというのが、僕の感じ方だ。では、どういう風に説明するのが、より合理的なのか。

カタコトの英語とドイツ語を喋る者として、いつも思うのは「西洋言葉(僕にとってのドイツ語や英語)は、最初にアクセントがない」ということだ。最初にアクセントがなく、その次に大きなアクセントがある。それをネイティブがやるように真似ようとしても出来ないので、僕の外国語は常に日本人特有の平板なイントネーションになってしまう。

先程の例で出た「One and Two and」もそうだが、わかりやすい例で言えば、ドイツ語の「こんにちは」である「Guten Tag」。最初の「Gu」から「ten」は音程をいったん下げた後に「Tag」で一挙に跳ね上がり、音量も強く発声される。「Meine Damen und Herren」でもいい。強いのは2番目、4番目に置かれた「Damen」と「Herren」。1番目と3番目の「Meine」と「und」は軽く、弱く発音される。ちなみに、この例で取り上げた「Meine Damen und Herren」は、英語の「Ladies and Gentlemen」に当たる。ドイツ語が4つの単語で構成されるのと異なり、英語は3語で成り立っているところからして違いがあるわけだが、明らかに「Ladies」と「Gentlemen」にアクセントがある。最初の言葉ではなく、次に来る言葉が強い傾向は、明らかに英語よりドイツ語の方が明瞭ではないかと思う。というよりも、ドイツ語の「Meine Damen und Herren」の場合、「Damen」と「Herren」を2番目、4番目に置いて強く発語するために、「mein(私の)」という本来には意味としてはなんら必要のない語を連れてきた感がある。英語と比べても、ドイツ語の方がアクセントが後ろに来る傾向が強い。この傾向が音楽に反映しないわけがない。

言葉と音楽は地続きだと思うので、この2つ目の語を自然と強く言いたがるドイツ語の傾向が音楽にも影響を及ぼす。では、強い、アクセントの2つ目の語を2拍目としてドイツ音楽が表現したか。これは歌詞がついた歌の楽譜を見れば分かることだが、結果的にはそうはなっていない。アクセントをはずしたい一語目を弱拍に置くという措置を下すことで、強い語は一拍目に来るようになっている。

なぜだろう? ここで、吉田秀和さんがずっと昔に書いていたことだが、「ドイツ音楽の基本はマーチ」というテーゼを思い起こす必要がある。マーチは、イッチ、ニッ、というオン・ザ・ビートのリズムで成り立つ音楽。森本さんは、そこにも右足が2歩目、つまり「ニッ」に来るようにすることによって、2歩目に実は重心があるのではないかと、この本の中で述べているわけだが、それが卓見であることを否定はしないものの、だからそれによってアフタービートであると述べるのは無理があるのではないかと思うのである。それはあくまで「イッチ、ニッ、イッチ、ニッ、」(オン・ザ・ビート)であって、「ウンタッ、ウンタッ、」(アフタービート)ではないという意味においては。

この先がよくわからなくて思考は行ったり来たり。今の時点で行き着いた先は、ここには単純に二つの系が存在しているという考え方が正しいのではないかというものである。そう割り切って考えると、別にこれは謎でも何でもなくなるのかもしれない。一方には、「イッチ、ニッ、イッチ、ニッ、」に代表されるマーチの系がある。と、同時に、2つめの語を強く発生したがるドイツ語の系がある。この2つの系を一つの音楽のシステム、あるいは記譜のシステムに統合するとすれば、弱いドイツ語の1語目をアウフタクトに置き、休符で始まる楽譜を作ればいい。そういうことではないのか?

ここに森本さんが述べている「実は伝統的な西洋の音楽もアフタービートなのではないか」を如何にあてはまめるべきか? これは素人が浅薄な知識と直感だけで述べることだから眉唾ではあるのだが、グレゴリオ聖歌などの古い音楽を思い起こすかぎり、大元の西洋音楽はオン・ザ・ビートだった。中近東からトルコを経て西洋に入ってきたのだろう、古い音楽形式としてのマーチもオン・ザ・ビート。そうした外来のリズムにドイツ語というごっついアフタービートの原語が絡むことによって、その土地の音楽には二つのリズム感が交じり合い、育ち始める。土地の言葉であるドイツ語に根ざすアフタービートは、したがってオン・ザ・ビートで出来上がっている旧来の土壌に新しい感覚を付け加え、その異質な要素が西洋音楽を豊かにした。一つの想像でしかない話ではあるが、こんな風に西洋音楽は、歴史的に異なる出自の要素が複雑に絡み合い、それらが共生しているシステムではないかという気がする。あくまで想像だが。

このアフタービートに関する論を展開する第1章は、アフタービートの権化ともいうべき音楽であるベートーヴェンの『運命』について最後に触れる。最初から最後までアフタービートで成り立つ『運命』の第1楽章のような音楽は、それまで存在しなかった。しかし、それは西洋の聴衆に瞬く間に熱狂をもって迎え入れられた。その事実を森本さんは、土地の音楽家との会話の形式で次のように書いている。

「つまり、当時のヨーロッパの聴衆には、この強烈なアフタービートを受け入れる土壌がすでにあったという事ですね」
「そういう事だろう。そして、その興奮ぶりを当時の資料で読むと、なんだかそれは、私が若い頃ロックコンサートに行って頭に血が上った時の感じに近いのだよ」

しかし、「ロックコンサートに行って頭に血が上った時の感じ」という意味は、大元の西洋音楽のリズムがアフタービートだからということなのではなく、アフタービートがドイツ語の話し言葉に根ざした、したがって音楽としては新しい表現であり、既存の体系に対する反逆のリズムだったからだという以外に読みようがないのではないかと僕は考えてしまう。そのように既存の体系の権威に新しい挑戦を行い、それが元の体系に接木をするように育ってきたのが西洋の音楽だ。その意味では、いわゆるクラシック音楽とジャズもロックミュージックも地続きであり、異なる分野と考えるのは嗜好上の便宜の問題でしかない。この本の後半で、著者は「クラシックもスウィングする」と主張するのだが、それはある意味当たり前であって、結局は「スウィング」という言葉の定義の問題でしかなくなってしまう。

西洋の楽譜には、フランス的要素、イギリス的要素、北欧的要素といった様々な様式が歴史を経るごとに加わり、様式のごった煮になっているはずで、「クラシック音楽」だとか「西洋音楽」という定義自体が、おそらくはあまりに便宜的に過ぎるのである。楽譜のシステムの凄さというようなことをどうしても考えてしまう。


西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け (光文社新書)

西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け (光文社新書)