平野啓一郎著『ドーン』、『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』

入院患者となって無聊をかこつ身になり、体力の続く範囲で読書をした。読んだ本のうち、話題の音楽コンクール小説について語気は控えめに「物足りない」と感想を書いたら、それを読んだ友人が、おそらく音楽家を主人公にしている良質な小説という意味で、平野啓一郎の『マチネの終わりに』を紹介してくれた。これがよかったので、もう一本続けて「平野啓一郎を読もう」と手に取ったのが『ドーン』だ。『マチネの終わりに』については、またあらためて別の機会に書くことにして、今日は『ドーン』について少し。

半分ほども読み進めてから「いつ書かれた本だろう?」とページをめくって奥付を確認したら刊行は2007年とあった。10年前に書かれた小説だ。平野さんの本は最初に『葬送』を読んで、その時の驚きは正直にこのブログの過去エントリーに残されている。


■平野啓一郎『葬送』を読む』(2006年9月13日)


この『葬送』をめぐる過去エントリーが2006年9月なので、『ドーン』はちょうどその頃に書き進められていたことになる。ということは、ネット社会の動向に関心がある(あるいはあった)者にとっては、それは梅田望夫平野啓一郎共著の『ウェブ人間論』(2006年12月)が新潮社から出た年なのであり、『ドーン』にはネットの普及が個人の人格形成に与える影響について考えていた平野さんの思いが小説の形で開陳されている。知らなかった私は「こんなの書いていたんだ」と今頃になって感心したのだけれど、昔読んだことがある人にとっては、今頃何いってんだかという話でしかないかもしれない。

『ドーン』の時代背景は近未来の2030年代に設定されており、主人公はNASAに勤務する日本人宇宙飛行士である。彼は人類初の火星有人探査のクルーとして2年以上にわたる宇宙旅行から帰還を遂げたばかりだが、帰ってきた世界は東アフリカで続いている戦争で疲弊している。警察国家として国の威信をかけ、あるいは産軍複合体の欲望に背中を押されるままに、時の米国は泥沼化しているこの東アフリカ内戦にのめり込んでおり、火星からロケットが戻ってきたこの時期、海外派兵の是非を主要な論点とする大統領選が大詰めを迎えようとしている。

このような書割にもとづいて物語が進むため、本は読み始めこそSFなのかなと思うが、肝心の火星での描写はほとんどないし、本編を通じて執拗に繰り返される『ドーン(Dawn)』(というのが宇宙船の名称だ)での出来事は、主人公たちの回想やメディアの報道記事などで語られるばかりであるため、SF小説を読みたい読者には肩透かしをくらう人も多かっただろう。むしろ米国の国内政治のドロドロと候補者同士の攻防が素材としては中心で、読んでみると政治小説の色が強いのだが、ただ、2017年の現在に読むと、この本が2007年に想像していた2030年のリアリティはすでに薄れてしまっている。それにそもそも、平野啓一郎の小説には、なんというか、筋立ては二の次みたいな部分がどこかにあり、500ページの饒舌な大著に最後まで付き合うのは骨の折れる部分があった。

それでも興味深い読書になった。というのは、平野さんの相当にアクの強い文章の引力が惹かれるのと、物語の中で展開されている「分人主義」なる主義主張が、ネットの時代の思想ないし処世術として考えるヒントになり、それが面白かったからだ。平野さんは2012年に『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』という新書を出しており、ここであらためて彼が提唱する「分人主義」について解説する。こちらは、たまたま数年前に手にとって、読んだことは読んだが、その時には正直もう一つピンとくるところはなかった。

個人(Individual)は、「in-divudal」で、語義的にもこれ以上分けられない存在として規定されている。平野さんは人間は他者とのコミュニケーションにおいて、それぞれの個別の関係によって異なる、一つではない個人=「分人」(divudual)の集合体だと考える。親との関係によって生じる「分人」、職場で生じる「分人」、仲の良い友達と接している時の「分人」は、それぞれ別の人格として存在し、育つものだと言う。個人の自我はタルトを切り分けたピースの集まりみたいなものだと位置づけらえる。人間の自我って実はそんな風にできていて、社会学でいう「役割」や、若い世代が言う「キャラ」よりも個人の核に根ざしたものだと平野さんは言う。

こんな風に一人の人格を捉えることによって、どんなよいことがあるのかというと、自我(の一つ)を育てるのは他者とのコミュニケーションであるという認識が社会的に固定されることによって、その重要性が明確になるし、ある人間関係で悩んでいたとしても、それはある一つの自我に関わる問題に過ぎないのだから、ことさらに思い悩む必要はないんだよと自分自身に対して逃げも打てるようになる。とまあ、そういうことのようなのだ。

「分人」には少々無理なところがあると思いもするが、個人にとっての他者とのコミュニケーション(特にその不全が生じたときに感じるそれ)の重要性という点では2ヶ月の入院生活でひどく思い知らされたので、共感を覚えた。『ドーン』では、主人公が狭い宇宙船の中に6人のクルーの一人として閉じ込められ、それによって井伏鱒二山椒魚さながらに良くない性質を帯びるのだが、その気持ちは病室の天井を見上げながら溜息をついていた者にはよく分かる。病室は宇宙船とは違い、嬉しいお見舞いのお客さんがあり、メールのやりとりがあり、ブログへの返信があるので、閉塞感は限られたものでしかないが、病人には社会から閉ざされた宇宙船の物語は身につまされてしまう。

一方で、個人は複数の自我の集合体であるという主張については、入院患者はまるで逆の思いを味わった。様々な友人関係、勤め先での関係、家族との関係には、表に現れる行動や行儀作法はそれぞれに違うものだと本人も思っているところがあり、それは平野さんの「分人」が教えるとおりだが、しかし、つまるところ病気を抱えた身体は、どの「分人」にも等しく大きな影響を与え、一つの体と一つの心を持つ自分を意識しないではいられない。身体と心とは切っても切れない存在であるというのが、そこから導き出される感想で、複数の自我を想定してみるよりも、一つの自分の周りに存在する複数の役割を想定する方が余程分かりやすく実用的である。

もう一つ、入院してみて思ったのは、人というのは常に自分と会話をするものだなあということだ。ベッドに寝っ転がって何もしない時間、いろいろなことを考える。それは自分が自分と会話を行うことに他ならない。たぶん、普通の日常生活においても、家族や、友達や、会社の上司やお客さんや様々な人たちとコミュニケーションを取りながらも、心の真ん中では自分がもう一人の自分と話をしながら、表に現れる役割に正当性を与えたり、あるいはその成り行きにがっかりしたりしているのだろう。そう考えると、最終的には、自分の心の真ん中を鍛える他に人生を生きやすくする道はないのだろうと思う。どんな人間関係があろうとなかろうと、最後に死ぬ時は人間みな一人であるわけだし。


ドーン (講談社文庫)

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私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

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