水村美苗著『日本語が亡びるとき』

水村美苗著『日本語が亡びるとき』を読んだ。これだけネット上で話題になっている本だし、そこそこの読後感は期待していたが、この読書は“とんでも”な内容を含めていろいろな意味で面白かった。

著者の偏見に寄り添うように語るならば、僕には「小説家が書く評論は例外なくつまんない」という思い込みがあって、しかるにこの本に関しても読む前から「つまらないに違いない」と思っていた。梅田望夫さんの絶賛があろうが、「良い意味でこの本は期待はずれで面白いです」という小野さん(id:sap0220)のコメントがあろうが、である。漱石だろうが、丸谷才一だろうが、大江健三郎だろうが、小説家の評論は、その小説に比べてつまらないものと相場が決まっているのである。どこで決まったかというと、僕が決めた独断と偏見である。小説も評論も面白いというのは、たとえば橋本治がそうかとも思ったりするが、やはり橋本のおじちゃんは評論家である。

だから、「つまんない評論を読んで、もう二度とこいつの本は読まない」と思う前に、ちゃんと一つは小説を読んでおこうと心に決め、『本格小説』を読んだ。一つだけ読んで免罪符になるのかと詰め寄られれば、すみません、許して下さいと謝るばかりであるが、読まないよりも、作家の体臭を知る上で数段よかろう、それなりに役に立つだろう、と思う部分に嘘はない。それなりに面白かったし、これは作者にとって書かれるべき物語であるという印象を率直に受けた。人に無闇と勧めたくなるような新しさは皆無だが、小説としての骨格がきちんとしており、時代や場所にまつわる細部も詳細に書き込まれた立派な恋愛小説だ。大著だがするすると読めてしまう。主人公を含め、登場する男性の造形が、いかにも女性の作家が書いたやさしさを内包し、男のいやらしさが感じられないのが精神衛生上たいへんよろしかった。主人公は白馬の王子様。そういう読書をしたい気分のときにはいい本であるが、この本のよさは最初の長い前書きの部分にある。この話は今日はしない。

そちらを先にやっつけたうえで、何冊かを挟んで『日本語が亡びるとき』を読んだ。年の境目をまたがっての読書となった。

この一冊をとるか、とらないかと尋ねられたら、一も二もなく「とりません」と答える。だって、「この人の言うこと、そうとう無茶苦茶なんだもん」というのが正直な感想だから。ただ、無茶苦茶でとんでもない主張が面白いと思う心の動きにも嘘はなく、だから読みながら、あれこれと思いをめぐらせることができたのは幸いな読書だった。そういう意味では、梅田望夫さんがブログで語っていた「プラットフォーム」としての読書はできたのである。

何が無茶苦茶か。
長編評論を舌足らずの数行で要約すると著者は怒るだろうが、この本はだいたいこんな本だ。


1.「国語」は民度バロメーターである。「国語」として文化的に高度な蓄積をしている日本語を大事にしないなんてもったいない!

2.「国語」の審美的な側面の結晶が国民文学である。我が国の国民文学、漱石や鴎外に代表される明治以降の近代文学はその白眉である。「国語」のために近代文学を大切にしなければならない。

3.「普遍語」としての英語がインターネットの隆盛とあいまって猛威を奮っており、「国語」としての日本語は大きな脅威にさらされている。

4.「国語」としての日本語を守るために何をすべきかを考えねばならない。英語教育について言えば、総バイリンガル化政策は現実性が希薄であり、むしろ時間は日本語教育に費やして、内と外とのハブとなる「選ばれた人」をつくることに焦点を当てるべきだ。


以上の要約は、鉤括弧内以外は僕の粗雑な言葉によっており、きちんとした論理展開は元著書三百数十ページを読んで頂くしかないので、その点はご了解頂きたい。

さて、以上の要約の「1」の部分、「国語」がどんなに素敵なものかを自身の体験や西欧史にまつわる蘊蓄を駆使しながら語る水村さんの筆は実に生き生きとしていて、大いに説得されるところがあった。面白かった。そこで終わっていれば、この文章は問題提起の書として大いに賞賛されたのではないかと思う。無茶苦茶はその後に来る。

何が無茶苦茶か。
それは「2」の「なんたって、近代日本文学がサイコー!」って部分だ。科学系書籍の編集者をしているkanyさん(id:kany1120)が、著者の態度は懐古主義的であると述べている(http://d.hatena.ne.jp/kany1120/20081116/1226797522)が、僕も同じように言わざるを得ない。ただ、僕はkannyさんとは違って、おそらく間違いなく文学的嗜好は水村さんに近いところにある。「漱石はいいよね。日本の近代的自我の象徴だよね」って語っちゃうし、芥川龍之介など一部の小説は親が持っていた旧字体歴史的仮名遣いの版で読んだ記憶がある世代だし、水村さんが絶賛する戦前の文学に比較的なじんだ世代、否応がうえにもなじまざるを得なかった世代に属する。文学評論なんて読んだことないとおっしゃるkanyさんと違って、その類の本もしこたま読んでいる。だから「漱石、ステキ!」は分かる。でも、それと近代文学にあらざるは文学にあらずといった態度をとるか否かは次元が違う話で、その態度は明らかに間違っている。

違和感の主要な源泉は「六章―インターネット時代の英語と<国語>」の冒頭数ページである。ここでは文化商品としての文学が大衆化し、それによって生産され、普及する作品の品質が極度に貧しくなっているという主張が、激烈な言い回しでこれでもかと述べ立てられている。

一つは、科学の急速な進歩。二つは、<文化商品>の多様化。そして三つは、大衆消費社会の実現。主にこの三つの歴史的な理由によって、近代に入って<文学>とよばれてきたもののありがたさが、今、どうしようもなく、加速度をつけて失われていっているのである。(p234)

導入部にあるこのパラグラフを読んだだけで、もう目が点になる。これが人々が文学の終わりを憂える理由、その歴史的な根拠として作者が語るところなのである。この三点に関して、続く数ページをつかってより詳しい説明がなされている。明らかに異議があるのは、「大衆消費社会になって文学が駄目になった」と語られている部分だが、おそらく、これを読んだ多くの方はこの部分に少なからぬ違和感を覚えるのではないかと感じられる。論旨展開を促す記述の一つ一つに目を剥きたくなる表現が散見できるからだ。

例えば。

すべての<文化商品>は、それが廉価なものであればあるほど、もっとも多くの人が好むものが、もっとも多く売れるようになるからである。(p236)

二十世紀最高のプリマドンナマリア・カラスの歌を聴きたい人が、財布の中身と相談し、泣く泣く、ポップスの女王、マドンナの歌を買ってかまんしたりすることはない。(p236)

小説の場合も、もっとも多くの人に売れるもの、すなわち、もっとも<流通価値>をもつものが、もっとも<文学価値>をもつとは限らない。
それが芸術の崇高なところである。
良心的な編集者や書店の夢は<文学価値>をもった本が、飛ぶように売れることであろうが、そのような美しいとも虫がよいともいえる状況は現実ではなかなか望めない。(p236)

大衆社会の中で流行る文学は、そこに書かれている言葉が<読まれるべき言葉>であるか否かと関係なしに、たんにみなが読むから読まれるという本だからである。だが、それは確率的には、つまらないものが多い。それは、多くの場合、ふだん本を読まない人が読む本であるし、ポップ・ミュージックと同様、流行に敏感に反応するのを、まさに生物学的に宿命づけられている若者―将来のつがい相手もいればライバルもいる同世代が何をしているのか、四六時中全神経を研ぎ澄ましている若者のあいだで流行るものだからである。(p237)

なぜ、こんな粗雑なだけで、叩かれるのが見え見えの表現が最終稿に残ったのか。編集者は何をしていたのかと不思議の念に捉えられる。著者についたのが、よほど社会科学に無縁、無知の編集者だったのだろうか、というのは単なる皮肉である。

これは僕の別の趣味にたとえて言えば、渋谷のスクランブル交差点の真ん中で「古典音楽、サイコー!」、あるいは「ブルックナー、サイコー!」と絶叫するようなものだ。僕の嗜好からすれば「ブルックナー、サイコー!」は嘘ではないのだが、そういう風に絶叫しないのは、それが単に僕の個人的な趣味、嗜好を語っているに過ぎないと考えるからで、そうした個人的な主義主張が価値を持つのは同好の士の間でしか過ぎないでしょうと言いたいのである。原理主義は原典に対する問答無用の忠誠をもって規定されるが、近代文学原理主義というのはそもそもありえないのではないか? 西洋音楽史の中で後期ロマン派原理主義が意味をなさないのと同様に? この本の作者の姿勢は「いいですか、みなさん。ブルックナーを聴くことが、音楽を理解することにつながるのです。Jポップでは駄目なのです」とお説教しているようなものである。

日本語が亡びるとき』のなかで近代日本文学の代表例として紹介されている漱石、その漱石の未完の絶筆『明暗』の“続編”を書いて小説家としてデビューした経歴をお持ちの水村さんらしいが、『明暗』の冒頭に、主人公の津田が生活費の工面を父親にしようかどうしようかと思い悩んだ末に一筆啓上する場面がある。そこで漱石は主人公に「言文一致体の手紙を書いたら親父に馬鹿にされるかもしれないから、ここは格好つけて候文で書くかあ」という感想を抱かせ、そのとおりに実行させている。江戸の末期に生を受けた津田のお父さんにしてみれば、言文一致体の手紙などどうしようもなくダサい代物だったのである。ということは、漱石の書く新聞小説の文体など、やはり津田の親父さんからすればダサくて読んでられない代物だったはずで、原理主義的な「これがサイコー」という思想を提示する前に、そういうことを考えてみる必要がないのかと僕は言いたくなる。

立花隆は、『ぼくはこんな本を読んできた』の中でだったと思うが、明治の著作など古典だとは思わないと語っていたように覚えている。明治なんて新しすぎるというわけだ。この横丁界隈でいうとセルゲイさん(id:sergejO)あたりが賛同しそうな意見だが、そうした価値観の持ち主からすれば、僕のような戦後文学の読み手は言うに及ばず、「明治文学サイコー!」なんて言っている奴は馬鹿に見えるかもしれない。そういうことを考えてみる。

でもね、「明治文学サイコー!」っていう意見に意味がないとはまったく思わない。それと同様、「Jポップ、サイコー!」っていう若者、例えばEXILEが大好きな僕の末の子供を見て馬鹿だとか、単なる浅学だとは思ってはいけない。子供を育てていると、という表現がおこがましければ、若い世代と一緒に生活しているとと言い直すが、それは生活者としての僕の皮膚感覚の一部として感じる部分で、僕はその感覚を根に、考えるということをしたい。

あらゆる原理主義的な態度に対しては疑ってかかるのがよろしい。それを僕に教えてくれた重要な一人が、夏目漱石宮澤賢治を自身のテーマとして長く追い続けながら、同時に村上春樹高橋源一郎ら新時代の小説家、表現者を何のためらいもなく自身の評論の俎上に載せ、ポップカルチャーを語ることをやめなかった吉本隆明だ。『アーキテクチャの生態系』(http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20081119/p1)の中で語られている携帯小説の構造に関する分析について、この指摘には意味があると僕に言わしめるのも僕のなかにいる吉本隆明的な何者かだと思う。日曜日の吉本さんの番組を見て、ますます今日の感想を書きたくなった。夏目漱石村上春樹を「どっちがいい、悪い」と二律背反的、二項対立的に語る必要など、本来どこにもないはずである。