大江健三郎著『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』

テーマは絶望的な状況に直面し、長い悲嘆の時期を過ごす個人の、その悲しみの時からの魂の回復である。ということは言うまでもなく、これは典型的な大江作品である。それはそれは、あまりに大江健三郎なので、大江ファンが喜ぶのか退屈するのか想像するのが難しいというほど、これは典型的に大江健三郎だ。

道具立ても、成城に居を構えるノーベル賞受賞作家であり、この小説の語り部である「私」を中心に、その妻・千樫、息子の光、四国の故郷に住まう姉妹のアサ、といったいつもの登場人物が脇を固め、「メイスケさん」「メイスケ母」といった、これもおなじみの伝説上の人物達が全編を通じて回顧と想像と創造の対象として登場する。

こうしたいつもの大江的世界に投げ込まれるのが、サクラ・オギ・マガーシャックというアメリカ人を夫に持つ美しい国際女優。権力を後ろ盾に弱い者を叩きつぶす者たちの専横を描き、そのために深く傷つく者を描き、その魂の回復を描く大江文学の、今回の選ばれた主人公である。彼女は日本で子役としてならし、その後ハリウッドで一定の成功を収めて日本では国際女優として知られている米国在住の日本人という設定なのだが、後に夫となる駐留軍の米人に性的な陵辱を受けた記憶が潜在意識の深いところに根を下ろしており、世間的な成功とは裏腹の、過酷な人生を送っている。この女性が、大江が子供の頃に感銘を受けたポーの詩のヒロイン“アナベル・リー”になぞらえられている。

このヒロイン、サクラさん、脇役として登場する小説家の大学時代の友人で、国際的に仕事をする映画プロデューサーの木守有という二人の主要登場人物は、いわば作者の分身そのもので、作品に登場する大江を加えた三人は、我々普通の日本サラリーマンにはあずかり知らない不思議な、しかし純粋そのものの日常を生きている。こちらの心のありようによって、ときには実に美しく思われ、ときにどうでもいいけどいい加減にしろよと思ってしまう、世間知らずの大小説家の、相変わらず壮大なモノローグのドラマである。

しかし、「相変わらず」ばかりではない。暴力が音もなく幅をきかせる(大江的)世界にあって、四国の山深い大江の故郷に残る伝承と登場人物とが外国文学の読み取りを通じてダイナミックに響きあういつもの大江文学のスタイルはそのままに、どこか新しい趣が感じられるのは、そこに枯淡の味が加わったからなのではないかと僕は思った。この作品、どこかすっきりとしている。枚数もそれほど多くない。もっとも、クライマックスにベートーヴェンの最後のピアノソナタである第32番が鳴る、そのペダンチックでいまいちピントのはずれたと僕には感じられる音楽の使い方などは昔の大江健三郎そのままで、そんな苦笑を誘う場面もあるのだけれど、それはそれでまた楽しいと思ってしまったのは、それ自体心が大江作品を求めていた証拠のようなものだ。『同時代ゲーム』や『燃えあがる緑の木』の過剰に嫌気がさした人にはお勧めできるかもしれない。明らかに食傷気味だったはずなのに、久しぶりに読んだ新作は、最初の段落から大江を読む喜びをたちどころに思い出させてくれた。

大江につきものの政治的なコノテーションよりも、文字的表現それ自体に創作の重心が置かれている。それが僕のこの小説への感じ方。なんといっても「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」である。本来、もっとましな言い表し方があってしかるべきかもしれないが、それがともかくも枯淡という言葉につながっている。

このブログでは大江健三郎に対して「pros and cons」のどちらの立場でもあるような感想を書いていて、このブログで検索エンジンによって読まれるもっともポピュラーなエントリーのひとつとして存在している。

■村上春樹と大江健三郎(2006年11月9日)


たぶん、終生この作家へのアンビバレントな気持ちは変わらないのではないかと思う。それでも、きっとこれからも文句を言いながら大江作品を読み続けるに違いない。


臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ